|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ダイヤ : [だいや] 【名詞】 1. (1) dyer 2. (2) diagram (abbr) 3. (3) (railway) schedule 4. (4) diamond (abbr) 5. , (n) (1) dyer/(2) diagram (abbr)/(3) (railway) schedule/(4) diamond (abbr) ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダイヤモンドジュビリー(''Diamond Jubilee''、1897年 - 1923年)は、1900年にイギリスクラシック三冠を制したイギリスの競走馬。全兄にフロリゼル、パーシモン、サンドリンガムがいる。馬名はヴィクトリア女王在位60周年を記念してつけられたもので、生産者・馬主はアルバート・エドワード皇太子(のちのエドワード7世)である。 == 生涯 == 母パーディタはエドワード7世がデイヴィッド・ファルコナーから900ギニーで購入した馬で、セントサイモンとの間に何頭も活躍馬を出した。ダイヤモンドジュビリーはその最後の活躍馬である。また、父セントサイモンから見ても最後のクラシックホースである。1897年にサンドリンガム王室牧場で生まれたダイヤモンドジュビリーは2歳時にデビューするも気難しい性格のため1勝に終わった。なかなか成績が安定せず、大抵の騎手は満足に騎乗すらできないので、やむなく担当厩務員のハーバート・ジョーンズを乗せてクラシックに挑んだところ、2000ギニー、エプソムダービー、セントレジャーステークスの3競走に勝利し史上9頭目の三冠を達成した。この年はほかにニューマーケットステークス、エクリプスステークスに勝っている。翌年はさらに気性が悪くなりプリンセスオヴウェールズステークス2着、ジョッキークラブステークス3着と奮わず種牡馬入りした。 種牡馬となったダイヤモンドジュビリーへの期待は大きく、セントサイモンの後継種牡馬として、また兄パーシモンが成功したことから種付け料は300ギニーとかなり高く設定されていた(父セントサイモンの同期間の種付け料は500 - 600ギニー)。しかしジョッキークラブステークス優勝馬サンシーを出しただけで1906年にすぐに売価30000ポンドでアルゼンチンに売られていった。アルゼンチンは当時馬産に力をいれており、オーモンドなど三冠馬をほかにも導入する実績があった。 アルゼンチンは兄やほかのセントサイモン系種牡馬と競合するイギリスとは状況が違った(同時期にピーターマリッツバーグというセントサイモンの上級産駒が輸入されているがやはり成功を見ている)。ダイヤモンドジュビリーの南アメリカでの産駒にはAs de Espadas、Smasher、Moloch、Last Reason、Campanazo、Ricaurteらがおりアルゼンチンのほかチリやブラジル、ペルー、ウルグアイで成功したものも多い。アルゼンチンの1914-1916,1921年の4度種牡馬首位はダイヤモンドジュビリーであり、チリでは産駒が6度首位種牡馬になっている。 日本へはイギリスに残した産駒の一頭ダイヤモンドウエッディングが1909年に国立奥羽種畜牧場によって導入された。明治・大正期の日本馬産への貢献は大きく、初期のサラブレッドに少なからぬ影響を与えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイヤモンドジュビリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|