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ダイヤモンド・ダラス・ペイジ(Diamond Dallas Page、略称DDP)のリングネームで知られるペイジ・フォルケンバーグ(Page Joseph Falkinburg, Jr.、1956年4月5日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、俳優。ニュージャージー州ポイント・プリーザント出身。 == 来歴 == 1979年にカナダでデビューしたが、すぐに業界を離れフロリダ州マイアミでナイトクラブを経営していた。1988年、AWAでマネージャーとして再デビューし、バッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ=後のオリエント・エクスプレス)やカート・ヘニングらを担当。またこの頃すでに女性マネージャーのダイヤモンド・ドール(正体に関しては、後に妻となるキンバリー・ペイジが最も有名だが、彼女は何代目かのダイヤモンド・ドールで、もともとは複数のAVモデルが交代で務めていた)とコンビを組んでいた。 その後FCW(Championship Wrestling from Florida、WWE関連団体のFlorida Championship Wrestlingとは別物)でのカラーコメンテーターを経て、1990年には短期間ながらWWF(現・WWE)にアナウンサーとして在籍した。なお、同年行われたレッスルマニアVIでリズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)がピンクのキャデラックに乗って入場した際、その車のオーナーであったことから運転手役を担当している。 1991年、WCWで35歳にして選手として正式にデビュー。タッグ戦線やUS王座戦線など中堅で活躍していたが、WCW副社長エリック・ビショフと親密であった(家が近所だった)こともありトップグループのポジションを得た。1999年4月11日、リック・フレアーを破りWCW世界ヘビー級王座を初獲得。同王座は通算3度獲得、また、バンバン・ビガロらとのコンビでWCW世界タッグ王座も4度獲得し、WCWでは主役級の一人であった。 2001年のWCW崩壊後はWWFと契約。スライド移籍した中堅・若手ばかりの選手たちの中では数少ない元世界王者であり、アライアンス・アングルにおいてはブッカー・Tと共に中心選手として迎えられた。アライアンス解散後はWWFヨーロピアン王座を獲得。2002年3月には横浜アリーナで行われたWWF日本興行にて初来日を果たし、キング・ハクと対戦した。勝利後には客席に飛び込み、大勢の客とセルフ・ハイ・ファイブを決める定番シーンを見せた。 程なくして首を故障し、2002年にWWFを退団して現役を引退。引退後はヨガの教室を開いていたが、2004年 - 2005年にはTNAのリングにも上がり、またその広い人脈を活かしてイベントを企画するなど再び存在感を見せた。ヨガ教室のビジネスは医師から二度と歩けないと宣告された退役軍人を走るにまで回復させた経緯を撮った動画が話題になったり、そのほかにもスコット・ホールやジェイク・ロバーツといったドラッグに溺れ体を壊した元レスラー達を救うなど好調ぶりをみせている。 2012年、WWE・RAW1000回放送に向け、ヒース・スレイター対WWEレジェンドのスキットにおいてスレイターがドインク・ザ・クラウン戦にて勝利した際に登場。スレイターを褒め称え、握手を交わそうとした瞬間にダイヤモンド・カッターを決めた。 2015年1月25日、WWEのPPV、ロイヤルランブル2015のロイヤルランブルマッチに14番目に自身が開いているDDPヨガのTシャツを着用してサプライズ出場。セルフ・ハイ・ファイブを見せて観客を沸かせるもスターダストに倒されセルフ・ハイ・ファイブをされてしまう。追撃されるところでダイヤモンド・カッターを仕掛け、続けてコーナー上で座った状態であったファンダンゴ、そしてブレイ・ワイアットにもダイヤモンド・カッターを決める活躍をするがルセフにより脱落させられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダイヤモンド・ダラス・ペイジ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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