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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダウラターバード(英語:Daulatabad、マラーティー語:दौलताबाद、ペルシャ語:دولت آباد)は、インドのマハラシュトラ州の都市である。世界遺産アジャンター石窟、エローラ石窟群への観光基地としても知られるアウランガーバードの、北西13kmに位置する。 ==歴史== 仏教徒によって紀元前1世紀頃に造られたとされる石窟が、ダウラターバードにも残っている事より、その頃から仏教徒を含む人々が定住していた可能性がある。 12世紀末、ヤーダヴァ朝のビッラマ5世は、王位継承問題で紛糾していたチャールキヤ朝との一連の戦役に勝利を収め、1147年にデーヴァギリ(現ダウラターバード)を首都として独立した。1294年、ヤーダヴァ朝は、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジー(当時はアワド州長官)の侵攻を受けて敗北したため、次第にハルジー朝の属国と化してゆき、1317年に完全にハルジー朝に併合された。その後、1320年にハルジー朝の内紛を収拾したトゥグルク朝二代目のムハンマド・ビン・トゥグルクは、1327年に王朝の首都をデリーからデーヴァギリに遷すとともに、ダウラターバード(繁栄の町)と改名した(しかし様々な理由から、彼は再び首都をデリーに戻すことになった)。 ダウラターバードとなってからも、この都市は何度もその主を変えている。トゥグルク朝から独立したバフマニー朝が、その支配権をダウラターバードにも拡げたのを皮切りに、バフマニー朝分裂後の1499年にはアフマドナガル王国(ニザーム・シャーヒー朝)がこの都市を奪取し、1607年にその首都とした。この後、デカン高原の幾つかのスルターン朝とムガル帝国との間で戦争が繰り広げられていた1633年に、当時デカン方面戦役総督であったアウラングゼーブ指揮下のムガル帝国軍との4ヶ月にもわたる包囲攻城戦のすえ、ダウラターバード要塞は陥落した。 その後、ムガル帝国の支配下に入ったダウラターバードは、ビジャープルやゴールコンダ方面戦役の基地として用いられた。ゴールコンダを拠点として栄えたゴールコンダ王国最後の王アブル・ハサン・クトゥブ・シャーは、ムガル帝国軍に敗れた後、ダウラターバード要塞内の牢獄に幽閉され、そこで息をひきとっている。1724年以降は、ハイデラバードのニザーム王国がこの都市の支配権を握っていた。 近年の発掘調査により、要塞の下層からさらに古い都市の遺跡が発見されている。そして幾つかの異なる文化や宗教活動が、ダウラターバードで展開されていた事が明らかとなってきている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダウラターバード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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