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ダスティー・ローデス : ミニ英和和英辞書
ダスティー・ローデス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ダスティー・ローデス ( リダイレクト:ダスティ・ローデス ) : ウィキペディア日本語版
ダスティ・ローデス[ちょうおん]

ダスティ・ローデスDusty Rhodes、本名:Virgil Riley Runnels, Jr.1945年10月12日 - 2015年6月11日)は、アメリカ合衆国プロレスラーテキサス州オースティン出身。NWAWCWWWEなど各団体でプロデューサーも務めた。
日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正しくはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズローズ・ピアノと同じスペル)。ニックネームはアメリカン・ドリームThe American Dream)。日本では「獣戦車」、それ以前は「極道」などの異名を付けられていた。
コテコテの南部訛りでのマイクパフォーマンスを得意とし、「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が現役選手時代の決め台詞。130kgを越える巨体であったが動きは素早く、コミカルなショーマン・スタイルの第一人者として、1970年代から1990年代にかけて絶大なベビーフェイス人気を獲得した。しかし、本来は喧嘩ファイトを得意とするラフファイターであり、ブルロープ・マッチをはじめデスマッチ形式の試合でも数々の流血戦を演じた。
ゴールダストなどのギミックで知られる実子のダスティン・ローデスもプロレスラー。2006年には、ダスティンとは異母兄弟である末子のコーディ・ローデスもデビュー。
晩年はWWEの重役として活動。WWE NXTにてGMを務め、コミッショナーとも呼ばれた。
== 来歴 ==
ウエスト・テキサス州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍していた(同期にブルーザー・ブロディボビー・ダンカンザ・ファンクスは大学の先輩、スタン・ハンセンテッド・デビアスは大学の後輩)。
ジョー・ブランチャードのコーチを受け、1968年にテキサス州サンアントニオでプロレスラーとしてデビュー。その後、セントラル・ステーツ地区で同じテキサス出身のディック・マードックタッグチームテキサス・アウトローズ」を結成し、NWAAWAの両テリトリーを股に掛けて活躍。日本には1971年11月に国際プロレスに初来日。以降、全日本プロレス新日本プロレスに参戦した(後述)。
AWAではマードックとのコンビでディック・ザ・ブルーザークラッシャー・リソワスキーの元祖・極道コンビと抗争を展開。"ダーティ" ダスティ・ローデス"Dirty" Dusty Rhodes)の異名を持つテキサスの荒くれ極道としてヒール人気を高めた。
テキサス・アウトローズ解散後の1973年下期、エディ・グラハムが主宰するNWAフロリダ地区CWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に参戦。当初はAWA時代と同じくヒールのポジションだったが、マネージャーゲーリー・ハート、パートナーのパク・ソンとの仲間割れを機に、1974年5月よりベビーフェイスに転向する〔DVD『WWE ダスティ・ローデス アメリカン・ドリーム』Disc-1(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕〔ダスティ・ローデス、ハワード・ブロディ共著『アメリカン・ドリーム ダスティ・ローデス自伝』P75-81(2008年、エンターブレイン、ISBN 9784757741577)〕。
以降は1980年代半ばまで約10年間に渡ってCWFを主戦場とし、南部のヒーロー的存在となってフロリダ・ヘビー級王座を通算11回、南部ヘビー級王座を通算7回獲得。テリー・ファンクモンゴリアン・ストンパーアーニー・ラッドキング・イヤウケアザ・シークオックス・ベーカーキラー・カール・コックスキラー・カール・クラップブラックジャック・マリガンラーズ・アンダーソンザ・スポイラーボブ・ループボブ・オートン・ジュニアジョー・ルダックレロイ・ブラウンイワン・コロフニコライ・ボルコフバロン・フォン・ラシクミスター・サイトーディック・スレーターアレックス・スミルノフ、ブルーザー・ブロディ、ビッグ・ジョン・スタッドアブドーラ・ザ・ブッチャーマーク・ルーインケビン・サリバンエイドリアン・ストリートザ・グレート・カブキケンドー・ナガサキ等々、名立たるヒール勢を迎え撃った。
フロリダではディック・マードックとテキサス・アウトローズを再結成したこともあるが、ヒールのマードックを敵に回してシングル対決も行っている。また、ルーザー・リーブス・タウン・マッチに敗れたというアングルの後、マスクを被ってミッドナイト・ライダーThe Midnight Rider)やウバルデ・スリムUvalde Slim)などと名乗り、一時的に覆面レスラーに変身したこともある。体型やファイトスタイルで正体は一目瞭然であり、対戦相手のヒールを撹乱し、ファンを楽しませるための演出だった〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P189-190(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕。
1977年にはニューヨークMSGスーパースター・ビリー・グラハムWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。以降もMSG定期戦にはスペシャル・ゲストの立場で何度となく出場し、スパイロス・アリオンスタン・スタージャックユーコン・ピエールジミー・バリアントトーア・カマタキラー・カーンアンジェロ・モスカらと対戦(1979年12月17日の定期戦では王者ハーリー・レイスVS挑戦者ローデスのNWA世界ヘビー級タイトルマッチも行われた)。1978年3月20日にはアンドレ・ザ・ジャイアント&ミル・マスカラスと超豪華トリオを結成、ケン・パテラトール・タナカミスター・フジ組を破っている。 
1979年8月21日、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王者となるが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落(アメリカのルールではトップロープを越えて場外に相手を落とすのは反則である。普通反則負けでは王座は移動しないが、時折特別ルールとして「反則でも王座移動」となることがあった)。その後1981年6月21日に再びレイスから(第61代)、1986年7月26日にはリック・フレアーから同王座を奪取し(第69代)、計3回に渡って戴冠している。1985年頃からはジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区プロデューサーも兼任するようになり、数多くのイベントや試合形式、レスラーのギミックなどを企画した〔ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P104-105(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)〕。
1989年から約2年間、WWFと契約。黒人女子レスラーのサファイア をマネージャーに従え水玉模様のリングコスチュームを身にまとい、テッド・デビアス、ランディ・サベージホンキー・トンク・マンビッグ・ボスマンらと抗争し、ダスティン・ローデスとの親子タッグも実現させた。1990年代WCWのプロデューサーに就任、レスラーとしてはセミリタイアの状態となるが、一時期はプレイング・マネージャーとしてnWoにも加入していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダスティ・ローデス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dusty Rhodes (wrestler) 」があります。




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