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ダッカ : ウィキペディア日本語版
ダッカ

ダッカ( 、旧名Dacca)は、バングラデシュ首都でありの首府を兼ねる。世界有数のメガシティであり、国際連合の2010年度人口推計によると、近郊を含む都市圏人口はバングラデシュ最大の1,464万人であり、世界第9位である。
バングラデシュ中央部に位置し、ブリゴンガ排水路によってドレッショリ川に通じる同国の商業工業文化教育の中心地であるダッカは、「モスクの街」としても知られる。ジュート綿加工や食品加工などの製造業が行われ、特にまた高品質なモスリン生産の地としても有名である。街中には約40万台と言われるリキシャが毎日行き交う事でも知られる。
ダッカの歴史は9世紀以前に遡るが、ダッカが都市として繁栄したのはムガル帝国の統治下で17世紀ベンガル州の州都となったことによる。当時の名は「ジャハーンギールナガル」といった。1765年よりイギリスの支配にあるイギリス領インド帝国に組み込まれ、19世紀にはコルカタに次ぐベンガル地方第二の都市にまで発展した。1947年パキスタンとして独立後は東パキスタンの首都となった。1971年にバングラデシュとして独立以後も引き続き首都となり、現在に至る。
現代のダッカは、バングラデシュの政治・文化・経済活動の中心地である。 都市のインフラストラクチャーは国中で最も発達しているが、それでも急激な人口増加には追いつかず、公害交通渋滞または公共サービスの不足などの問題に直面している。そのような中でも近年は交通機関や情報網および公共事業などで近代化が促進されている。ダッカは外資を呼び込んで商業や貿易の拡大を図っているが、これがまた人口の流入を促進する要因となり、結果的にダッカを世界一急激な人口増加都市にしている〔http://www.worldbank.org.bd/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/SOUTHASIAEXT/BANGLADESHEXTN/0,,contentMDK:21384826~pagePK:141137~piPK:141127~theSitePK:295760,00.html〕。こうした負の要素は、早々に改善できるものではなく、2013年、世界各都市の医療、文化・環境、教育、インフラを数値化した「世界で最も住みやすい都市」のランキングでワースト2位になった(1位は内戦状態のダマスカス)。
== 歴史 ==

現在のダッカがある地域が市街地化された最初の時期は7世紀であり、8世紀には仏教国の王国、次いでパーラ朝の統治下にあった。そして9世紀からはヒンドゥーセーナ朝がこの場所を治めた。12世紀になり、女神を祀る寺院がによって建立されると、これにちなみ都市は「ダッカ」と呼ばれるようになった。当時のダッカ周辺はベンガラ (Bengalla) と呼ばれ、市街には小規模な市(Lakshmi Bazar, Shankhari Bazar, Tanti Bazar, Patuatuli, Kumartuli, Bania Nagar, Goal Nagar)がいくつか立った。セーナ朝の後には、ダッカはデリー・スルターン朝が送り込んだテュルク人やパシュトゥーン人による為政が続いたが、勃興したムガル帝国1608年に当地を支配した。
ムガル帝国のベンガル州都となったダッカでは、都市の開発と人口増加が始まった〔〔。行政担当を担当した初代知事は、皇帝ジャハーンギールにちなんでこの都市の名をジャハーンギールナガル(「ジャハーンギールの都」の意)と定めた。将軍の頃〔〔、都市は19×13kmの市域に約100万人を抱えるまでに発展した。
1765年イギリス東インド会社は徴税権(ディーワーニー・ライト、Diwani right)を獲得し、1793年にはベンガルの貴族階級(ナワーブ、Nawab)はベンガルやビハールまたオリッサの州や都市に対する利権を放棄することを強いられ、イギリスはこれら地域を支配する行政権をも手中にした。この期間、コルカタの人口が増加した事と対照的に、この地区の都市からは市民の流出が続いたが、実質的な発展は続き、近代化も行われた。現代的な都市給水網は1874年に導入され、電力供給も1878年に始められた。その一方、が都市近郊に設けられ、イギリスとベンガルの軍が駐留することになった。
1905年ベンガル分割令が発布され、ダッカは新設された東ベンガル、アッサム州の首府とされたが、この法令は1911年に撤回された〔〔〔。1947年、インドが分離独立すると、ダッカは東パキスタンの首府となった。しかし、このインド分割に端を発する住民間の対立が激しくなり〔、ヒンドゥーの多くがインドへ移住、逆にムスリムの流入が増えた。ダッカは地方行政府であったため、政治的な抗議活動や暴力行為が頻発するようになった〔。さらに、パキスタンの公用語ウルドゥー語のみに統一した事がこれらに拍車をかけ、が沸き起こった。この運動では、パキスタン警察が平和的なデモを行っていた学生ら多数を殺害する事件も起きた。この事件を記念するのがショヒド・ミナールで、事件が起きた2月21日国際母語デーとなっている。1950年代から1960年代にかけて、ダッカは政治活動の温床であり続け、ベンガル人による自治を要求する運動は高まりを見せた。
1970年、大型台風のボーラ・サイクロンがダッカ及び周辺を襲い、約50万人が死亡した。市域の半分が水没し、数百万人が水の被害を受けた。中央政府の民族差別的かつ不充分な救援は、民衆に怒りを沸き立たせ、1971年3月7日にはベンガル人政治家のムジブル・ラフマンが呼びかけで民族主義の集会が開かれた〔〔。集会には約100万人が集まり、これが3月26日に行われたバングラデシュ独立宣言に繋がった〔。これに対しパキスタン軍は「」を敢行して対抗し、何千人もの逮捕・拷問そして殺害を行った。争乱は9ヶ月に渡る血みどろの戦闘に発展し、バングラデシュ‐インド連合軍の前にパキスタン軍は降伏し、バングラデシュ独立戦争が終戦した。ダッカは新生国家バングラデシュの首都となり、国中の農村地域から出稼ぎ労働者を受け入れる形で急速に人口を増やし大規模な都市拡張を見せた。これに伴い商業や産業も発展し、インフラストラクチャーの整備にも着手され始めた。不動産取得がブームとなって市域が拡大し、地区、地区、ボシュンドラ、、などの地区が開発された。一方、このような人口増加は窃盗など犯罪件数の増加にも繋がっている〔。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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