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ダニエル・シュタイベルト : ミニ英和和英辞書
ダニエル・シュタイベルト
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ダニエル・シュタイベルト : ウィキペディア日本語版
ダニエル・シュタイベルト

ダニエル・ゴットリープ・シュタイベルトDaniel Gottlieb Steibelt1765年10月22日 - 1823年10月2日)は、ドイツピアニスト作曲家ロシアサンクトペテルブルクに没した。
==生涯と音楽==
シュタイベルトはベルリンの生まれで、ヨハン・キルンベルガーに付いて音楽を学ぶが父にプロイセン軍隊に入隊させられてしまう。彼は脱走し、放浪しながらピアニストとして活動するようになり、1790年パリに落ち着く。シュタイベルトは1793年に〔訳注:1789年設立、パリの劇場運営会社。1801年興行主の事情により主要なライバルであったオペラ=コミック座と合併した。()〕で劇的なオペラ「ロメオとジュリエット」を発表しており、これは後にベルリオーズに激賞された〔Hector Berlioz, article in the ''Journal des Débats'', 13 Sept 1859.〕。この作品はシュタイベルトの作品中でも最も独自性の高い、芸術的に成功した作品であるとみなされることが多い。
シュタイベルトはパリと同様ロンドンでも多くの時間を過ごすようになり、そこで彼のピアノ演奏は大きな注目を集めた。彼は1797年にはヨハン・ザーロモンコンサートで演奏している。1798年に発表したピアノ協奏曲第3番 変ホ長調は、長大なトレモロを有する「嵐のロンド」が特徴であり非常に人気を博した。翌年にはドイツへの演奏旅行を開始し、ハンブルクドレスデンプラハとベルリンでの演奏を成功させた後、1800年5月にウィーン入りする。その地のフリース(Fries)伯爵邸で、シュタイベルトはベートーヴェンに腕比べを申し込む。
勝負の記録によれば、それはシュタイベルトにとって悲惨なものだったようである。ベートーヴェンはシュタイベルトの新曲の楽譜を逆さにして譜面立てに置き、そのチェロパートの主題を題材にした即興演奏で勝負を制したと伝えられる〔Ries (with Wegeler), ''Biographische Notizen über Ludwig van Beethoven'' (1838).〕。屈辱を受けたシュタイベルトは即刻演奏旅行を中止した。パリへ戻った彼はハイドンオラトリオ天地創造」の公演準備を行い、1800年12月24日オペラハウスでこれを初演している〔G. Müller, ''Daniel Steibelt, Sein Leben und seine Klavierwerke'', p. 41.〕。そこに至るまでに、第一執政ナポレオンが辛くも爆撃を逃れる場面があった。シュタイベルトはちょうど最も成功したピアノソナタの一つを出版し、ナポレオンの妻のジョゼフィーヌに献呈したところであった〔G.Müller, op. cit., p.97.〕。イギリスでの2度目の滞在(1802年夏 - 1805年秋)を終えた後、彼はパリへと戻る。シュタイベルトはナポレオンがアウステルリッツの戦いで勝利したことを記念して「3月の饗宴 ''La Fête de Mars''」と題した音楽間奏曲を作曲し、1806年2月4日に行われた初演にはナポレオン自身も臨席した〔Théo Fleischman, ''Napoléon et la musique'', Bruxelles, Brepols, 1965, p. 177.〕。
1808年にはロシア帝国皇帝アレクサンドル1世の招きを受けてサンクトペテルブルクに赴き、1811年ボイエルデューの跡を継いで国立オペラの音楽監督となった。彼は以後、生涯をその地で過ごすことになる。1812年にはロシアの国家に捧げるピアノ大幻想曲「モスクワの破壊」を作曲している。
シュタイベルトは1814年にほぼ演奏活動を止めてしまったが、1820年3月16日にサンクトペテルブルクで行われた自作のピアノ協奏曲第8番で再び舞台に登場した。これは終楽章に合唱を擁することが特徴的な曲であるが、ベートーヴェンの「交響曲第9番」よりも4年も早く、またベートーヴェンの「合唱幻想曲」を除きそれまでに書かれた唯一の合唱付きピアノ協奏曲であった。その後、エルツの「ピアノ協奏曲第6番 Op.192」(1858年)やブゾーニの「ピアノ協奏曲」(1904年)などの合唱付きのピアノ協奏曲が作曲されている〔Harold C. Schonberg, ''The Great Pianists'', p. 68〕。
シュタイベルトは劇音楽に加えて、主にピアノ曲に多くの作品を遺した。彼の演奏は華麗であったが、同時代のクラーマークレメンティに特徴的であったより高度な技術には欠けていたといわれる。しかし、彼の演奏と作曲の才は彼がヨーロッパ中でキャリアを築ける程のものであった。によれば、彼は「尊大、傲慢、失礼かつ絶え間ない浪費家であり、不誠実」でさえあった。そのように素行が悪いという判断は、今日まで伝わる彼の生活上の出来事からも裏付けられている〔例えば、シュタイベルトに盗癖があったことがNorvinsの''Mémorial'', Paris, 1896-1897, vol. I, ch XIVに記されている。〕。これらや、同様に彼の性格に関する非難を見る場合には、シュタイベルトの本当の性格が作り変えられたものである可能性に注意をする必要がある。
最盛期のシュタイベルトは、強い個性を持つ想像力に富んだ作曲家であった。彼のオペラ「サンドリヨン ''Cendrillon''」(1810年)と「ロメオとジュリエット」(1793年)、すべてのピアノ協奏曲、室内楽曲ピアノソナタからの選集(1800年のホ長調 Op.45や1809年のト長調 Op.64など)そしてピアノ曲のいくつか(カプリースと前奏曲練習曲 Op.78)は今日においても演奏され、楽しむに値するだけの音楽的価値を有している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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