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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダニエル・ダリュー(Danielle Darrieux, 本名: ダニエル・イボンヌ・マリー・アントワネット・ダリュー, 1917年5月1日 - )は、ボルドー生まれのフランス女優。現在まで110以上の映画に出演しているフランス古典派美人女優の代表格。 == 来歴 == 医者の娘としてフランス南西部で生まれる。その父親は第一次世界大戦の間、フランス軍に勤めていたが、彼女が7歳の時死んだ。ダリューはその後パリで育って、音楽学校でチェロを学んだ。 14歳の時、『ル・バル』 (1931) の主役で映画デビュー。1936年、シャルル・ボワイエと共演した『うたかたの恋』で悲恋の令嬢マリーを演じ、一躍国際的なスターとなる。 第二次世界大戦の間、フランスがドイツ軍占領下にもかかわらず、しばらく演劇活動を続けたため、彼女は同胞によってひどく批判された。しかし、映画会社から、ドイツに彼女の兄弟を追放すると脅迫されていたので、ダリューは従わざるを得なかった。 戦後は、『輪舞』 (1950)、『赤と黒』 (1954)、『チャタレイ夫人の恋人』 (1955) のような文芸作品で人気を博した。ただし、『チャタレイ夫人の恋人』は、そのエロチックな内容のため、アメリカではカトリック検閲官によって放映禁止となった。 1960年代には歌手としてコンサート活動を行い、レコードも出している。1970年にはブロードウェイ・ミュージカル『Coco』にキャサリン・ヘプバーンの代役として主演。1980年代にはパリの劇場でミュージカル『ジジ』を演じている。 1930年代初頭から21世紀の現在に至るまでの、その80年間に及ぶ長いキャリアは、ミシュリーヌ・プレールを凌ぐ。 1962年、レジオンドヌール勲章を受勲。1985年度の第10回セザール賞で名誉賞を受賞。 1999年、アメリカ映画協会の選ぶ「伝説の映画スター100人(男優50人・女優50人)」の中には選ばれなかったが、その選考の際ノミネートされた500人(男優250人・女優250人)のリストには入った。そのリストの中でフランス映画女優としては他にアナベラ、シモーヌ・シモンのみであり〔http://connect.afi.com/site/DocServer/stars500.pdf?docID=261〕、ノミネートされた中で彼女は数少ない存命かつ現役俳優の1人だった。ちなみにダリュー自身はアメリカ映画に4本、イギリス映画に1本出演しただけである。 2002年には、新鋭フランソワ・オゾン監督の映画『8人の女たち』に出演。歌と踊りも披露して、80代でもフランス映画界の現役女優であることを全世界に示した。この作品でカトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアールら他の7人の共演女優たちと共にベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。その後も映画出演を続けている。 プライベートでは1935年に映画監督・脚本家のアンリ・ドコワンと結婚するが1941年に離婚。ドコワンはしばしば自分の製作する作品にダリューを主演させて、彼女の映画経歴を助けた。また、彼はハリウッド映画に進出するよう妻に促したが、ダリューはほんの短期間アメリカで活動した後すぐにフランスに戻った。 1942年に、ドミニカ共和国外交官で悪名高い女たらしのポルフィリオ・ルビロサと結婚するが、ルビロサは彼の反ナチ的な意見のためドイツへ強制移住させられた。ダリューは夫の解放と引きかえに、女優としてベルリンでプロモーション旅行をした。彼らは戦争の終わりまでスイスに住んで1947年に離婚。 1948年に結婚したジョルジュ・ミトキシデスとは、彼の亡くなる1991年まで連れ添った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダニエル・ダリュー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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