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ダニエル・バチェク(Daniel Vacek, 1971年4月1日 - )は、チェコ・プラハ出身の元男子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られ、ロシアのエフゲニー・カフェルニコフと組んで1996年・1997年の全仏オープン男子ダブルス2連覇、1997年の全米オープン男子ダブルス優勝があり、4大大会男子ダブルス3勝を挙げた選手である。日本のジャパン・オープンでも、男子ダブルスで1997年と1999年の2度優勝した。男子ツアー大会では、カフェルニコフのほかにもシリル・スーク、マルティン・ダムなどと組んで数多くのタイトルを獲得した。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝5度)、ダブルスで25勝を挙げた。 バチェクは父親の勧めにより、11歳という比較的遅い年齢からテニスを始めた。1990年にプロ入りし、この年に男子ツアー大会のダブルスで3勝を記録する。キャリアの最初期は、バチェクは同じチェコのヴォイチェフ・フレグル(Vojtech Flegl)とペアを組むことが多く、1990年度の3勝はすべてフレグルとのコンビで獲得したものである。その後しばらく好成績が出なかったが、1993年8月の「パイロット・ペン選手権」ダブルスでシリル・スークと組んで優勝し、1994年に2勝を挙げる。1995年、バチェクはスークとのペアでダブルス年間4勝を獲得し、この頃からダブルス選手としてのキャリアを確立し始めた。この年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのチェコ代表選手に選ばれ、単複の両方で活躍を始める。 1996年の全仏オープンで、バチェクはエフゲニー・カフェルニコフとペアを組み、初進出の4大大会男子ダブルス決勝でギー・フォルジェ(フランス)&ヤコブ・ラセク(スイス)組を 6-2, 6-3 で破って優勝した。パートナーのカフェルニコフは、この大会でロシア人選手として初の4大大会シングルス優勝者になり、単複2冠を獲得した。1996年アトランタ五輪で、バチェクはオリンピックのチェコ代表選手に選ばれ、イリ・ノバクと組んだダブルスで準々決勝に進出している。1997年、バチェクとカフェルニコフは全仏オープンと全米オープンを制し、4大大会年間2冠を達成した。全仏2連覇の前、バチェクは日本のジャパン・オープン男子ダブルス優勝もあったが、この時のパートナーはマルティン・ダムであった。彼は1997年に男子ツアーで自己最高成績の年間「5勝」を記録したが、4大大会年間2冠を含む3勝をカフェルニコフと、ジャパン・オープンを含む2勝をダムとのコンビで獲得した。 シングルスでのバチェクは、1994年から1999年までの間に5つのツアー大会で決勝戦に進んだが、すべて準優勝に終わった。彼の4大大会シングルス成績は、ウィンブルドンで1994年、全米オープンで1995年と1997年の2度4回戦進出がある。デビスカップでは1995年から1999年までチェコ代表選手を務め、通算8勝7敗(シングルス5勝5敗、ダブルス3勝2敗)の成績を残した。 1999年のジャパン・オープンで、バチェクはジェフ・タランゴ(アメリカ)と組んで2年ぶり2度目の優勝をした。この年はツアーで挙げた年間4勝のうち、3勝をタランゴと、1勝をジャスティン・ギメルストブ(アメリカ)とのコンビで獲得している。3つのグランドスラム・タイトルを一緒に取ったカフェルニコフとも、1999年までペアを組み続けた。2002年1月、彼は全豪オープン1回戦でダビド・ナルバンディアン(アルゼンチン)に 5-7, 6-3, 3-6, 3-6 で敗れ、これを最後にシングルスから撤退する。最後のダブルス優勝は、2002年4月のスペイン・バルセロナ大会で、パートナーはオーストラリアのマイケル・ヒルであった。最後の年となった2003年は、全仏オープンとウィンブルドンの男子ダブルスのみに出場し、ともに1回戦で敗退した。ジム・トーマス(アメリカ)と組んだウィンブルドン・ダブルス1回戦で、フランスペアのファブリス・サントロ&ミカエル・ロドラ組に 1-6, 4-6, 4-6 で完敗した試合を最後に、ダニエル・バチェクは32歳で現役を退いた。 == 4大大会ダブルス優勝 == * 全仏オープン 男子ダブルス:2勝(1996年&1997年) [大会2連覇] * 全米オープン 男子ダブルス:1勝(1997年) : (パートナーはすべてエフゲニー・カフェルニコフ) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダニエル・バチェク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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