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ダニエレ・デ・ロッシ(Daniele De Rossi, 1983年7月24日 - )は、イタリア・ローマ(オスティア地区)出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。セリエAのASローマ所属。 イタリア代表としても活躍しており、2006 FIFAワールドカップの優勝メンバーの1人でもある。 == 経歴 == ローマ生まれのローマ育ちという生粋のロマニスタであり、ASローマの下部組織に入団。徐々に頭角を表し、2001年10月に18歳でチャンピオンズリーグの対RSCアンデルレヒト戦でトップチームデビューを果たすと、2002-03シーズンの2003年3月に19歳の時にトリノ戦でセリエAデビューを果たす。このシーズンはセリエAで4試合に出場し2得点を記録した。 2003-2004シーズンはトップチームに定着しリーグ・カップ合わせて27試合に出場。また、U-21欧州選手権、2004年のアテネオリンピックにもイタリア代表として参加。アテネオリンピックでは日本戦でオーバーヘッドシュートを決めた。その数週間後にはA代表でのデビューも飾っている。 2004-05シーズン、2005-06シーズンはチームのミッドフィールドのファーストチョイスとしてリーグ・カップ合計82試合に出場し10得点。2006年にはセリエAの最優秀若手プレイヤーに選ばれる等、セリエAを代表するMFに成長し、2006 FIFAワールドカップ代表に選出された。ワールドカップではグループリーグ第2戦、対アメリカ戦において相手FWブライアン・マクブライドにひじ打ちを喰らわせた行為が悪質な反則として4試合の出場停止処分を下され、その後の当大会での出場は絶望視されたが(グループリーグ第3戦・決勝トーナメント1回戦・準々決勝・準決勝と出場停止となりチームが決勝または3位決定戦に進出しない限り出場停止が解けないため)、チームは見事決勝に進出し、決勝ではローマのチームメイト・フランチェスコ・トッティに代わりピッチに立ち、PK戦では3番手のキッカーとして成功。優勝を果たす。 2006-07シーズンは前シーズンから監督を務めるルチアーノ・スパレッティの下、優勝こそインテル・ミラノに譲り2位に終わったものの、そのインテルの監督や選手も含め多くのサッカー関係者から「セリエAで最も美しいサッカーをする」と評されたゼロトップシステムを、中盤の核として支えた。 2007-08シーズンもチームの中心として2年連続のセリエA2位と、チャンピオンズリーグベスト8に貢献。しかしオールド・トラッフォードで行われたチャンピオンズリーグ準々決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では、PKを外して敗退の原因にもなった。EURO2008イタリア代表にも選出され、背番号10を背負う。グループリーグ突破をかけたフランス戦でゴールを決めるなど活躍。敗れた初戦のオランダ戦では、デ・ロッシを起用しなかったロベルト・ドナドーニ監督が批判されるなど代表における存在の大きさもみせた。同年9月10日のW杯予選グルジア戦では2得点を記録。この試合の前に義父を亡くしており「自分のキャリアでもドッピエッタ(1試合2得点)は初めてだと思う。この2得点は義父に捧げたい。」と語った。 2008-09シーズンはローマは6位と低迷したものの、怪我で離脱することが多かったトッティに代わりチームを牽引し、オスカル・デル・カルチョのイタリア人サッカー選手賞を受賞した。 2010 FIFAワールドカップではグループリーグ初戦のパラグアイ戦でW杯初得点となる同点ゴールを挙げた〔Italy v Paraguay , BBC Sport〕。しかし第2戦のニュージーランド戦、第3戦のスロバキア戦では低調なパフォーマンスに終わり、イタリアは1勝も出来ずに大会を去った。ワールドカップ後最初の試合となったコートジボワール戦では初めてイタリア代表のキャプテンとしてプレーした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダニエレ・デ・ロッシ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Daniele De Rossi 」があります。 スポンサード リンク
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