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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダニー・ホッジ(Danny Hodge)のリングネームで知られるダニエル・アレン・ホッジ(Daniel Allen Hodge、1932年5月13日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。オクラホマ州ペリー出身。日本では「鳥人」、海外では「Dynamite(ダイナマイト)」の異名をとった。 ビル・ロビンソンをして、ルー・テーズ、カール・ゴッチと並ぶアメリカの3大シューターと言わしめた。アメリカでは「世界中の偉大なスポーツマン・ベスト100」や過去75年間のプロレスラートップ12にも選ばれている。 == 来歴 == 少年時代からレスリングを学び(本人曰く「アマ、プロの区別はなく "レスリング" を学んだ」という)、アマチュアの世界でオクラホマ州チャンピオンの他、AAUを4度、全米大学選手権を3度も制し、19歳でヘルシンキオリンピックに出場し5位入賞、メルボルンオリンピックでは銀メダル獲得と輝かしい成績を残している。 またレスリングだけではなくアマチュア・ボクシングでも実績を残しており、大学でレスリング部に所属していた時にボクシング部の部員に誘われボクシングを始め、オクラホマ州チャンピオン、MSGチャンピオンと続けて1958年には全米ゴールデングローブ・ヘビー級チャンピオンにまでなっている。また短期間(約10か月)ではあるがプロボクサーとしても活動しており、戦績は8勝2敗。後にプロレスラーとなってからもその片鱗を見せ、日本プロレスに来日した際には、アントニオ猪木をパンチでノックアウトしたこともある。 1959年、NWAのプロモーターで元NWA世界ジュニアヘビー級王者のレロイ・マクガークにスカウトされ27歳でデビュー。プロレスラーとしてはエド・ルイスに師事。プロレスの世界でも天才ぶりを見せつけ、デビューからわずか1年後の1960年7月にNWA世界ジュニアヘビー級王者に就いた。以後通算12年5か月もの間、同王者に君臨し続ける。 1967年、国際プロレスの旗揚げシリーズに初来日。ヒロ・マツダの挑戦を受け、60分時間切れドローの大熱戦を演じた。1968年1月にも国際に参戦し、ルー・テーズと対戦してTWWA世界ヘビー級王座を奪取。ジュニアヘビー級とヘビー級の壁を、大王者テーズ相手に超えてみせた。 1968年1月には日本プロレスにも参戦。ウイルバー・スナイダーとタッグを組み、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。1972年9月にも日プロの「第3回NWAタッグ・リーグ戦」にネルソン・ロイヤルとのコンビで参戦。1974年7月には全日本プロレスに参戦。ジャンボ鶴田と対戦し、30分時間切れで引き分けている。 1976年3月、ルイジアナ州でヒロ・マツダを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を再び獲得した。しかし、直後に自動車事故を起こし首を骨折する重傷を負い、そのまま引退。 引退後はレスリングのコーチを務めた。現在ではオクラホマ州の複数のMMA団体からコミッショナーへの就任を要請され実際にその職に就いている。 1991年、レスリングの練習のためにアメリカにいた太田章と石澤常光が、ホッジの経営するオクラホマのドライブインを訪問。そのとき、ホッジは太田の腕を両足で挟み「抜いてみろ」と促したが、何をしても絶対に抜けなかったと太田は回想している。 2005年にはWWE・RAWにゲスト出演した。同年10月に久々に来日し、ビル・ロビンソンがコーチを務める高円寺のレスリング・ジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にてトークショーを行った。その際、ビル・ロビンソンと3分間のスパーリングを行っている。2008年10月には "プロレス・エキスポ" 立会人として来日、往年の "リンゴ潰し" の健在ぶりを見せた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダニー・ホッジ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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