|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダマージー・ラーオ・ガーイクワード(Damaji Rao Gaekwad, 生年不詳 - 1768年8月18日)は、西インドのグジャラート地方、ガーイクワード家の当主(在位:1732年 - 1768年)。 ==生涯== ピラージー・ラーオ・ガーイクワードは領土拡大を目指していたが、1732年5月にムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった〔Baroda 3 〕。 後を継いだピラージー・ラーオの息子ダマージー・ラーオは、1734年にヴァドーダラーのムガル帝国軍を追い払い、この地を自身の拠点とした〔Baroda 4 〕。 その後、ダマージー・ラーオはムガル帝国の軍勢と戦い続けて領土を広げ、1757年にはマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオとともに帝国の州都アフマダーバードを陥落させた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.217〕。これにより、マラーターによるグジャラート征服は完了し、この地方はガーイクワード家と王国で二分された〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.217〕。 その頃、アフガニスタンのドゥッラーニー朝の勢力が帝国領にたびたび侵入し、ダマージー・ラーオも他のマラーター勢力とともにこれに対抗した〔Baroda 4 〕。だが、1761年1月14日、マラーター同盟軍はパーニーパトの地で大敗北を喫し、戦いに参加していたダマージー・ラーオは辛くも逃げ延びた(第三次パーニーパトの戦い)〔Baroda 4 〕。 1768年8月18日、ダマージー・ラーオは死亡し、息子のサヤージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承した〔Baroda 4 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダマージー・ラーオ・ガーイクワード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|