翻訳と辞書
Words near each other
・ ダライアスツイン
・ ダライアスバースト
・ ダライアスバースト アナザークロニクル
・ ダライアスバースト クロニクルセイバーズ
・ ダライアスフォース
・ ダライアスプラス
・ ダライアス・コウチ
・ ダライアス・バッセル
・ ダライアス・ヴァッセル
・ ダライアス外伝
ダライスン・ゴデン・ハーン
・ ダライニフマ・ツァンヤンギャムツォ
・ ダライラマ
・ ダライラマ11世
・ ダライラマ13世
・ ダライラマ14世
・ ダライラマ14世テンジン・ギャツォ
・ ダライラマ3世
・ ダライラマ・テンジンギャムツォ
・ ダライラマ五世


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ダライスン・ゴデン・ハーン : ミニ英和和英辞書
ダライスン・ゴデン・ハーン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ダライスン・ゴデン・ハーン : ウィキペディア日本語版
ダライスン・ゴデン・ハーン[ちょうおん]

ダライスン・ゴデン・ハーンモンゴル語:Дарайсүн гүдэн хаан、英語:Daraisung Guden Khan、1520年 - 1557年)は、モンゴル帝国の皇帝(大ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ボディ・アラク・ハーンの長男。
==生涯==
1520年〔『蒙古源流』では「甲辰の年(1544年)」としているが、次の「二十九歳の戊申の年(1548年)」と合わないため、和田清が独訳本に従って修正したように(『東亜史研究(蒙古篇)』p522)、庚辰の年(1520年)とする。《岡田 2004,p243》〕、ボディ・アラク・ハーンの長男として生まれる。
1547年、ボディ・アラク・ハーンが崩御すると、右翼のトゥメト・トゥメン当主であるアルタン・ハーンは直ちに左翼三トゥメンに攻め込み、ダライスン太子以下を東方に放逐した。ダライスン太子はやむを得ず、チャハル部とハルハ部の一部(五オトク・ハルハ)を率いて大興安嶺山脈の東、遼河の上流域に遊牧地を移した〔岡田 2004,p243-244〕〔宮脇 2002,p154〕。翌年(1548年)、ダライスンはハーンとなる。
1551年、ダライスン・ハーンはアルタン・ハーンと和睦し、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)の神前で正式にハーンに即位することができ、ダライスン・ゴデン・ハーンとなった。ダライスン・ゴデン・ハーンはその代償として、代以来の名誉ある称号「司徒」をアルタンに授け〔『蒙古源流』には「(ダライスン・ゴデン・)ハーンはアルタンにシタウ・ハン(sitau qan)の称号を与えて」とあり、『アルタン・ハーン伝』には「アルタン・ハーンにソート(suu tu)の称号を賜わった」とある。岡田英弘はこれを「元代以来の名誉ある称号司徒」と訳したが、吉田順一はこれに疑問を抱き、且つ『蒙古源流』の記述(ダライスン→アルタン)よりも、『アルタン・ハーン伝』の記述(ボディ・アラク→アルタン)の方が正しいとしている。《吉田 1998,p263-264》〕、アルタン・ハーンが「ゲゲン・ハーン」と称することを承認した。〔岡田 2004,p244〕
1557年、ダライスン・ゴデン・ハーンは38歳で崩御し、翌年(1558年)長男のトゥメン太子がハーン位を継いだ〔岡田 2004,p243-244〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダライスン・ゴデン・ハーン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.