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ダライスン・ゴデン・ハーン(モンゴル語:Дарайсүн гүдэн хаан、英語:Daraisung Guden Khan、1520年 - 1557年)は、モンゴル帝国の皇帝(大ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ボディ・アラク・ハーンの長男。 ==生涯== 1520年〔『蒙古源流』では「甲辰の年(1544年)」としているが、次の「二十九歳の戊申の年(1548年)」と合わないため、和田清が独訳本に従って修正したように(『東亜史研究(蒙古篇)』p522)、庚辰の年(1520年)とする。《岡田 2004,p243》〕、ボディ・アラク・ハーンの長男として生まれる。 1547年、ボディ・アラク・ハーンが崩御すると、右翼のトゥメト・トゥメン当主であるアルタン・ハーンは直ちに左翼三トゥメンに攻め込み、ダライスン太子以下を東方に放逐した。ダライスン太子はやむを得ず、チャハル部とハルハ部の一部(五オトク・ハルハ)を率いて大興安嶺山脈の東、遼河の上流域に遊牧地を移した〔岡田 2004,p243-244〕〔宮脇 2002,p154〕。翌年(1548年)、ダライスンはハーンとなる。 1551年、ダライスン・ハーンはアルタン・ハーンと和睦し、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)の神前で正式にハーンに即位することができ、ダライスン・ゴデン・ハーンとなった。ダライスン・ゴデン・ハーンはその代償として、元代以来の名誉ある称号「司徒」をアルタンに授け〔『蒙古源流』には「(ダライスン・ゴデン・)ハーンはアルタンにシタウ・ハン(sitau qan)の称号を与えて」とあり、『アルタン・ハーン伝』には「アルタン・ハーンにソート(suu tu)の称号を賜わった」とある。岡田英弘はこれを「元代以来の名誉ある称号司徒」と訳したが、吉田順一はこれに疑問を抱き、且つ『蒙古源流』の記述(ダライスン→アルタン)よりも、『アルタン・ハーン伝』の記述(ボディ・アラク→アルタン)の方が正しいとしている。《吉田 1998,p263-264》〕、アルタン・ハーンが「ゲゲン・ハーン」と称することを承認した。〔岡田 2004,p244〕 1557年、ダライスン・ゴデン・ハーンは38歳で崩御し、翌年(1558年)長男のトゥメン太子がハーン位を継いだ〔岡田 2004,p243-244〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダライスン・ゴデン・ハーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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