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ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(チベット暦5月6日) - 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマ〔"The Institution of the Dalai Lama" by R. N. Rahul Sheel in ''The Tibet Journal'', Vol. XIV No. 3. Autumn 1989, pp. 19-32 says on pp. 31-32, n. 1: "The word ''Dalai'' is Mongolian for "ocean", used mainly by the Chinese, the Mongols, and foreigners. ''Rgya mtsho'', the corresponding Tibetan word, always has formed the last part of the religious name of the Dalai Lama since Dalai Lama II – should read Dalai Lama III . The expression ''Lama'' (Bla ma) means the "superior one". Western usage has taken it to mean the "priest" of the Buddhism of Tibet. The term Dalai Lama, therefore, means the Lama whose wisdom is as deep, as vast and as embracing as the ocean."(和訳:「ダライ」という言葉はモンゴル語で「海」を意味し、主に中国人、モンゴル人、外国人が用いているものである。これに対応するチベット語の「ギャムツォ」はダライ・ラマ2世以来、つねにダライ・ラマの法名の末尾を構成するものとなっている〔原文ママ - ダライ・ラマ3世を参照せよ〕。ラマという表現は「上人」を意味する。今までの西洋の用法では、ラマをチベット仏教の「聖職者」を意味するものとして捉えている。したがってダライ・ラマという言葉は、海のように深く広大な、包括的な智慧を有するラマを意味している。)〕である。法名はテンジン・ギャツォ()。 1935年、アムド地方(現在の青海省)の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に就いていたが、1959年に中華人民共和国からの侵略と人権侵害行為に反発してインドへ亡命して政治難民となり、インドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現「チベット人民機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めている。亡命後は、法的には領する国土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中にちらばるチベット系民族に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されている〔Mark Sappenfield and Peter Ford (March 24, 2008).Dalai Lama must balance politics, spiritual role . ''The Christian Science Monitor'' Retrieved on: May 9, 2008〕。また、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされるようになった〔フランソワーズ・ポマレ 『チベット』 創元社、123頁。〕。2011年には、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の長から引退することになった。これを承けた亡命チベット人憲章改定案では「チベット国民の守護者にして保護者であり、チベット人のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され〔Tibetan Charter Drafting Committee Issues Draft Preamble 2013年5月27日閲覧。〕、ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くというダライ・ラマ5世以来の伝統〔ダライ・ラマ5世の時代に(一部を除く)全チベットの再統一が果たされ、ダライ・ラマ5世はその政教両面の最高権威として君臨したとされるが、その後の歴代ダライ・ラマがつねにチベット全体の支配者であったわけではない。その支配権の及んだ範囲は時期によって異なり、7世の代にはその権勢は全盛期と比較して非常に限定的になった。9世から12世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため実権を行使する機会がなく、この時期のダライ・ラマは権威の象徴にすぎなかったとの見方もある。ダライ・ラマ政権の直轄地域も長らく中央チベットのウーに限られていた。ラサから遠い地方では世俗の領主や各宗派の大ラマがダライ・ラマの権威を認めながらもそれぞれの領地を支配して割拠しており、東チベットのカムでは清朝に服属する在地の諸候が事実上の独立状態にあった。再びダライ・ラマ自身が名実ともにチベットに君臨したのは20世紀に入ってからのことである。Sam van Schaik, ''Tibet: A History'', chap. 7 および、スネルグローヴ他 『チベット文化史』 第8章を参照。〕を終わらせることになった〔2011年3月、ダライ・ラマ14世は政治的立場からの引退を表明し、それに伴って亡命チベット人憲章が改訂され、憲章上はいまだ元首であると考えられるが、ダライ・ラマの位置づけは政治的指導者から精神的指導者に変更された。His Holiness the 14th Dalai Lama. A Brief Biography. Retrieved on: May 8, 2008〕。 世界的に著名な仏教指導者の一人であり、チベット仏教のゲルク派において最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な長ではなく〔ロラン・デエ 『チベット史』 春秋社、135頁。〕、ゲルク派の教勢が伸長して他派との摩擦が生じた時代に事実上の最高指導者となった学僧ゲンドゥンギャムツォ、そしてその転生者に認定されたスーナムギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転生系譜であった〔田中公明 『活仏たちのチベット』 春秋社、97-100頁、同著 『図説 チベット密教』 春秋社、55・57頁。〕〔最初にダライ・ラマの称号を授かったのはスーナムギャムツォ。〕が、1642年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響力をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった〔河口慧海『チベット旅行記』(三), 講談社学術文庫265 (1978)、多田等観『チベット』岩波新書91 (1942, pp. 9, 13-14, 14-16, 41-45)、青木文教『秘密の国 西藏遊記』中公文庫560 (1990, p. 284)、田中公明『活仏たちのチベット ダライラマとカルマパ』春秋社 (2000, pp. 113-114.)。〕。一方、現在のダライ・ラマである14世は亡命後にチベット人全体の政教両面の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意見もある(#チベット仏教内の関係参照)。また、本人は「自分は一介の比丘にすぎない」と語ることが多い〔田中公明 『活仏たちのチベット』 春秋社、150頁。〕。世俗的な称号としては、パリ名誉市民〔「ダライラマ14世を名誉市民に」『朝日新聞』2008年4月22日夕刊2頁参照。〕、名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)などがある。 == 来歴 == === 生い立ち - 少年期 === 1935年7月6日、当時の中華民国青海省内のチベット北部アムド(現在の青海省海東市平安区)に属するタクツェルの小さな農家にて、9番目の子供〔「それまでに8人の子供が生まれていた」とある(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33)。〕〔なお、「子供7人のうちの5番目の生まれ」という説もある(Craig 1997, pg. xxi)〕として生まれた。なお、生家は小農ではあったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。貴族階級でもない。わずかな土地を人に貸し、自分たちでも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており、ゾモというヤクと牝牛の雑種を5〜6頭、80頭あまりの羊やヤギ、2〜3頭の馬、2頭のヤクを飼っていたという〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.31〕。生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.33〕。 幼名はラモ・ドンドゥプ(''Lha-mo Don-'grub''〔チベット語表記。〕)と名づけられた。これは「願いを叶えてくれる女神」という意味である〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.30〕。長男のトゥブテン・ジグメ・ノルブはすでに高僧タクツェル・リンポチェの化身として認められていて、有名な僧院クムブムで修行をしていた〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.35〕。他にも18歳年上の姉としてチェリン・ドルマなどがいた〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.34〕。見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.36〕。 3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に頭の向きを北東に変えたこと。他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのを「視た」、続いて、青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘につづいている映像を「視た」、そして最後に変な形をした「樋」のある小さな家を「視た」ことだ、という。僧は"Ah"は地名アムドのアだと確信して捜索隊をそこへ派遣したという。 "Ka"の文字はクムブムのKに違いないと思ってクムブムにやってきた捜索隊は、クムブムの僧院が青くて3階建てであることを発見しその読みが正しかったと確信したという。捜索隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39〕。 捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.39〕。上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ〔チベット語表記。〕(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。 1939年の夏、ラサに向けてチベット政府の捜索隊らおよび両親や兄弟らとともに3ヶ月かけて移動。ダライ・ラマの夏の離宮であるノルブリンカ(宝石の庭園の意)に入った〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.41-44〕。1940年冬、ポタラ宮殿に移動し、チベットの精神的指導者の座に正式に就任、ラサのジョカン寺で剃髪式、見習い僧の式が行われ、ダライ・ラマとしての手ほどきを受け始めた〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.47-49。教師としてついたのはレティン・リンポチェ(当初上級教師、後に教師からはずれる)、タタ・リンポチェ(当初下級教師、後に上級教師に昇格)、キゥツァン・リンポチェ(非公式の個人教師、元捜索隊長)、リン・リンポチェ(タタ・リンポチェのかわりに下級教師となった)。リン・リンポチェとは親友となった(出典:同ページ)。〕。ロブサン・サムテン(1つ上の兄)とともに読み書きの勉強から開始。お経の授業も開始〔脚注:チベット語にはウ・チェンとウ・メという2種類の筆記形態があり、一方は私的な書き物、もう一方は公文書や書簡用となっている(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.53)。 脚注:少年のダライ・ラマの生活スケジュールについて 朝6時起床、着替えて1時間ほど祈祷と瞑想。7時に朝食を摂り、それから授業の開始。12時ちょうどに鐘が鳴り、昼休みとなり、子供らしく遊ぶ。1時に軽い昼食。食後すぐに授業が再開。一般教育。午後4時にお茶。その後2人のチェンシャプが来て、抽象的な論題(たとえば「心」の本性とは何か?)といった質問との格闘。午後5時半頃にようやく1日の試練から開放される。7時頃まで絵を描いたりして過ごし、夕食。夕食後は宮殿の内庭を散歩をしながら経典を暗誦したり祈祷をする決まりになっていたが、実際は子供らしく物語を考え出したりして時を過ごしたという(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.53-61)。 少年期のダライ・ラマ14世が受けた一般教育のカリキュラムの内容は仏教学で学位取得を目指す他の僧たちと同じで、主要科目・副科目に分かれ、以下のような内容。 主要科目:「論理学」「チベット芸術と文化」「サンスクリット」「医術」「仏教哲学」 この中でも「仏教哲学」が一番深遠で、5つに分類されていて、「プラジュナパラミタ(般若波羅蜜=智慧の完成)」「マディヤミカ(中観=中庸の道)」「アビダルマ(=形而上学)」「ヴィヤナ(=僧院生活の戒律)」「プラマナ(=論理学と認識論)」 副科目:詩歌、音楽・ドラマ、占星学、韻律・表現法・同義語研究(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.57-58)。 10歳の時から、チベットの僧院教育で基本とされている弁証法と討論技術を熱心に学んだ。ダライ・ラマとして仏教哲学を知っているだけでなく、討論にも熟達している必要があったためである(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.58)。〕。さらに、精神的(宗教的な)指導者としての教育と同時に、世俗的(一般社会の)指導者としての教育も受け始めた〔脚注:政府の会議のある時には、授業は朝10時に中断し、その会議に出席した(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.54)。〕。そういった時間以外はその年齢の子供らしく活発に遊んで過ごした〔脚注:金属製の組み立て式玩具「メカーノ」で遊んだり、ぜんまい仕掛けの汽車のセットなどがお気に入りだったという。また、他にも板を駆け上ってそこからジャンプするなど、腕白な遊びも大好きだった、という(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 pp.55-57)。 いろんな物をばらして組み立てるのが好きだったという(同書p.68)。〕。8歳の時には兄ロブサンは私立学校に行き、ダライ・ラマは一人で教育を受けるようになった。姉と一緒に過ごし、ロブサンや母が時々通ってくる、という生活を送る。毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した〔『ダライ・ラマ自伝』文春文庫 p.72〕。少年時代にラサには10人ほどのヨーロッパ人が住んでいて、その中の一人ハインリヒ・ハラーを兄ロブサンが連れてきたことで、互いに知り合うことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダライ・ラマ14世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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