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ルイージ・ダッラピッコラ(Luigi Dallapiccola, 1904年2月3日 - 1975年2月19日)は、イタリアの作曲家。姓はダルラピッコラ、ダラピッコラとも表記する。抒情詩調の十二音音楽の作曲で知られる。 ==生涯== ダッラピッコラはピシーノ・ディストリア(現在のクロアチア・パジン)で、イタリア人の両親の間に生まれた。 音楽と深く関わる環境に生まれたほかの多くの作曲家たちと違って、彼の音楽経歴はどんなに良く見ても不規則なものであった。当時オーストリア帝国の一部であった彼の出生地イストリアをめぐる政治論争が不安定さと頻繁な移住を招いたのである。彼の父親は町に唯一のイタリア語学校の校長であったが、この学校は第一次世界大戦の開戦時に閉鎖されてしまう。政治的破壊活動の恐れがあると見なされた彼の家族はオーストリアのグラーツに抑留された。この地では新米作曲家はピアノに触れる機会もなかったのだが、彼は地元のオペラハウスでの公演に参加し、そのことで作曲を職業として追究しようという希望が確固としたものになった。戦後、故郷ピシーノに戻ると、彼は頻繁に旅行をするようになった。 ダッラピッコラは1920年代にフィレンツェ音楽学校でピアノの学位をとり、1931年には同校の教授となった。以降、1967年に老人病により継続できなくなったためにエルネスト・コンソーロに交代し引退するまでそこで副科ピアノを教えた。彼はまた、ルイジ・ケルビーニ音楽学校のヴィート・フラッツィから作曲を学んだ。ダッラピッコラの教え子にはアブラハム・ザルマン・ウォーカーやルチアーノ・ベリオがいる。 ベニート・ムッソリーニによるファシスト政権下でのダッラピッコラの幼少期の経験は、彼の後の人生の展望や作品を特徴づけたといえるだろう。彼は一度プロパガンダを信用してムッソリーニを援助したことがあり、1930年代になって初めて、第二次エチオピア戦争やスペイン内戦へのイタリアの介入に反対する政治的視点を熱烈にもつようになった。ムッソリーニがアドルフ・ヒトラーの人種観に賛同したことはダッラピッコラのユダヤ人の妻ラウラ・ルッツァートにとって脅威となり、彼の考えはより強固なものとなった。『囚われの歌 ''Canti di prigionia''』と『囚人 ''Il prigionero''』は、この激しい悩みを反映した作品で、前者はダッラピッコラ最初の本格的なプロテスト作品である。 第二次世界大戦中、彼はナチスと対立したために危険にさらされていたが、それでも彼はいつも通りに仕事をこなそうと努力し、限られた範囲では実際にこなしていたが、二度ほど数ヶ月間身を隠さなければならないこともあった。ダッラピッコラは演奏家として旅行も続けていたが、旅行先はナチスの占領を受けていない地域に限られた。 彼の作品が人々の目に触れるようになった(オペラ『囚われの歌』によって名を成した)のは戦後のことであるが、その頃には彼の活動は比較的沈静化していた。彼は頻繁にアメリカ合衆国へ旅行し、タングルウッド音楽祭に出演したり、1956年からはニューヨーク市立大学クイーンズ校で作曲の教授を務めたりしている。彼は西ヨーロッパからアメリカにわたって、引っ張りだこの教育者であった。1968年に製作したオペラ『ウリッセ ''Ulisse''』以後、彼が作曲をすることはまれになり、その後の歳月は大部分をエッセイの執筆に費やしている。 ダッラピッコラは1972年以降は健康を害してもはや作曲を完成させることができなくなり、1975年にフィレンツェで肺水腫のため逝去している。しかしながら、この時期の作品の下書きや断片がごくわずかながら残されており、その中には彼が亡くなる数時間前に作られて未完のまま残された声楽曲などがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルイージ・ダッラピッコラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Luigi Dallapiccola 」があります。 スポンサード リンク
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