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ダレル・ケビン・メイ(Darrell Kevin May , 1972年6月13日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == のMLBドラフト46巡目でアトランタ・ブレーブスに指名され契約。、メジャー初昇格。にピッツバーグ・パイレーツに移籍するが、シーズン途中でカリフォルニア・エンゼルスに移籍。 からまでの2年間、阪神タイガースでプレー。先発ローテーションに定着し安定したピッチングを見せたが、打線の援護が乏しく2年間でわずか10勝に終わる。1999年5月29日の東京ドームでの対巨人戦で松井秀喜にデッドボール(二塁走者の清水隆行の三盗阻止のためと思われる)を与え、これに、普段は死球に激高しない松井が怒りの表情を出して即バットを放り投げ、メイに2、3歩歩み寄った際、球審に止められてその場でうずくまり、これより球場全体が一瞬どよめいた。試合後、松井は『あれは絶対故意に違いない』とコメント。その後松井は試合でサヨナラ三塁打を放った(松井とは後に巨人でチームメイトとなり和解、後にニューヨーク・ヤンキースでもチームメイトとなった)。1999年7月18日の対巨人18回戦(甲子園)では、1点ビハインドの6回表2死二塁で高橋由伸がファーストゴロを打った際、ベースカバーに走ったが、ベースを踏んでないためにセーフとされ、抗議したメイは杉永政信審判の胸を突き、暴力行為で退場となった。抗議をしている間に二塁ランナーが生還してしまい、この失点が響いて阪神は2対3と競り負けた。 当時、阪神の監督であった野村克也と対立し、シーズン中に東京スポーツ誌上で痛烈に野村を批判したコメントを発表。さらに英語で書かれた中傷ビラを自ら配るなどの行為をしたことから、球団より罰金1,200万円と無期限謹慎処分を言い渡され失意のまま帰国。シーズン終了後に解雇され自由契約となったが、この年3年連続で優勝を逃し、左腕投手の補強を進めていた読売ジャイアンツからオファーを受け、契約金、年俸を含めて1億5,000万円という阪神時代の4,200万円と比較すれば大幅な金額アップで巨人と契約した。移籍した際には、「野村監督との事はもう終わった事。いつまでもわだかまりは持ちたくない。あとはマウンドで答えを出すだけ」とコメントした。 6月7日の対阪神戦(東京ドーム)で元チームメイトの和田豊が3回続けて打席を外した際、和田に危険球を投げて問題になった。退場処分にはなっていないが10日間の出場停止と罰金が科せられた。その日のインタビューでメイはインタビュアーの「あの危険球は元同僚の和田を狙ったものか」という質問に対し「To Him(彼を狙った)」と答える。この年は12勝を挙げる活躍で巨人のリーグ優勝・日本一に貢献。翌も10勝と2年間で22勝を挙げてチームに貢献した。 2001年オフ、メジャー復帰を巨人に直訴して退団。よりカンザスシティ・ロイヤルズと契約。には10勝を挙げチームの勝ち頭となったが、翌は一転19敗を喫し、チームおよびアメリカンリーグの負け頭となった。にサンディエゴ・パドレスに移籍したが、同年7月2日にニューヨーク・ヤンキースに移籍。はシンシナティ・レッズ傘下のAAA級ルイビルでプレーし、同年限りで現役引退。 阪神に恨みを抱いているイメージが強いが、2003年に阪神がリーグ優勝した際はデイリースポーツに祝福のコメントを寄せていた。チームメイトとの関係も良好で、特に藪恵壹と仲が良いことを本人が明かしている。 ロージンバッグを触った後、掌に唾を吐く癖があった。相手チームから「スピットボール(不正投球)にあたり、反則行為ではないか」と指摘されたこともあり、しばしば審判から注意を受けていたが、メイ本人は全く気にする素振りを見せず止めることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダレル・メイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Darrell May 」があります。 スポンサード リンク
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