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第一次ミトリダテス戦争は、紀元前88年から紀元前84年に、ポントス王国と共和政ローマの間で起きた戦争で、3度にわたるミトリダテス戦争のうち最初にして最大のものである。戦前まで小アジア全域を制圧したポントス軍は、ギリシャでローマ軍と戦って敗れた。ローマの優位を認めつつ、現状復帰の条件で講和が結ばれた。 == 開戦まで == ポントスは、シリア戦争までセレウコス朝に服属する独立国であったが、シリアが後退すると、ローマの属国として扱われるようになった。ポントス王ミトリダテス5世はカッパドキアを攻めて併合した。息子のミトリダテス6世が王位を継承してから、ローマは紀元前92年にカッパドキアを亡命者アリオバルザネス(1世)に返還するように命じ、ミトリダテス6世も返還を受諾した。 しかし、ミトリダテス6世は隣国のビテュニア王ニコメデス4世の兄弟ソクラテスに一軍を与え、ビテュニアに送り込んだ。ソクラテスはニコメデス4世を追ってビテュニアを支配した。他方、カッパドキアでもミトリダテス6世の援助を受けた反乱が起こり、ローマが送り込んだアリオバルザネス1世を追ってミトリダテス6世の息子アリアラテス9世を王に立てた。 ローマはマニウス・アクィッリウスを長とする使節団を送り込み、追放された2人の王を復位させようとした。マニウスは、アシア属州総督ルキウス・カッシウスが持つローマ軍と、臨時に徴収した諸民族の兵力によって目的を達した。ミトリダテス6世はこれを静観した。しかしマニウスとカッシウスは戦争を望み、復帰した王にポントス攻撃を勧めた。ビテュニアのニコメデス4世はこの勧めに応じてポントスに侵攻し、略奪した。ミトリダテス6世はなおも反撃を控え、マニウスに抗議の使者を送ったが無視されたため、アリアラテス9世をカッパドキアに送り込んで占領した。当時のローマの法では、宣戦は元老院の権限であったが、マニウスらは自己の判断でミトリダテスに対する戦争を始めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次ミトリダテス戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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