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ダンディ坂野(ダンディさかの、1967年1月16日 - )は、日本のお笑いタレントである。本名、坂野 賢一(さかの けんいち)。 石川県加賀市出身。サンミュージックプロダクション所属。血液型はAB型。 == 人物 == 田原俊彦のようなアイドルに憧れて高校卒業後に上京を模索したものの、その資金がなかったことから、貯めるために地元で働いた後、26歳になった1993年に上京〔ダンディ坂野が明かす一発屋の現在 「それほど悪い場所だとは思いません。僕の才能からしたら、ありがたいくらい」(1ページ目) - 2015年6月13日付「週プレNEWS」より。〕。年齢的な理由とダウンタウンやウッチャンナンチャンがテレビ番組でアイドルと親しげにしていたのを見て、アイドル路線からお笑い芸人路線に方針転換〔。プロダクション人力舎のスクールJCAに2期生として入学する。漫才コンビ「ラブリン」を結成し、ボケを担当するも、「才能が無い」という理由で留年。一期下の3期生とともに1年間学ぶ。その時の3期生にはアンタッチャブルらがいた。卒業後、同スクールの講師だったブッチャーブラザーズの付き人となる。なお、同期とのジェネレーションギャップを感じていた坂野は、この頃(1996年頃)からピン芸人になることを決める〔。 1996年、大川興業の舞台『すっとこどっこい』でデビュー。そして、テレビ埼玉の番組『パンドラ御殿』でテレビ初出演。同番組内コーナー『探偵物集(ものたかり)』で、松田優作に扮した寺田体育の日とギャグ対決を繰り広げた。でんでんの芸風を受け継いだ漫談メインのスタイルであるため、第二電電とかけた「第二でんでん」が彼のキャッチフレーズだった。 1999年には、2002年以降のお笑いブームの火付け役となったNHKの番組『爆笑オンエアバトル』の第1回目に出演し、合格している。番組初期の功労者であり出場回数も多いが、オンエア率(合格率)はおよそ3割と低く、当時の番組歴代最多のオフエア回数15回という不名誉な記録も持っていた(後にHi-Hiが16敗で更新)。ただし、オフエアとなったネタも極端にKBが低いわけではなく、オンエア率の高い400KB台でオフエアになった時もあった。2000年6月放送分で当時の自己最高KBである393KBを記録したが、6位でオフエアになったため、司会の森下和哉(NHKアナウンサー)に向かって「超ムカつく!」と嘆いた。ちなみに最高KBは453KBである。オンエア率の低さとは裏腹に、後に番組の枠を超えて人気を博し、彼のブレイクはピン芸人ブームの先駆けとなった。 様々な色のタキシードを着用し(ネタ以外では黄色のタキシードが多い)、粋なジョークを飛ばすのが彼の芸風であるが、そのジョークのほぼ全てがテーマに沿った駄洒落を連発するだけのものである。ジョークを言った後に苦し紛れで言う決め台詞「Get's!!(ゲッツ)」は、一時期若者たちの間で流行した。「面白くないネタを披露して、滑って気まずくなった空気の中で使う」のがゲッツの本来の使い方であるが、人気絶頂期には滑るはずのネタがしばしばウケてしまい、彼を困惑させたという。 基本的にはネタ芸人であり、お人好しな性格でフリートークは得意ではない。そのため、2003年をピークにその後人気が下降。唯一のレギュラー番組だった『3つのとびら』が2006年3月に終了して以来、テレビへの出演回数はめっきり減っていった。しかし、月に数本の深夜番組や地方のローカル番組、およびライブを主な活動の場に持ち、また、テレビ朝日『雨上がり決死隊のトーク番組 アメトーーク』などの全国ネット番組に「一発屋芸人」として出演する機会も多くなってきており、完全にテレビから消えたわけではない。本人もそのキャラクターに徹しているようで、関西テレビ『たかじん胸いっぱい』に出演した際に「お笑いブームで残れないのは分かっていたし、ブレイクした時点で僕の中で何かが終わった気がした。これから頑張るより、一発屋芸人というキャラクターになろうと思った」と語っていた。 マイカーは長年ホンダ車を愛用しており、現在はステップワゴン(5代目、RP型)を所有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダンディ坂野」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dandy Sakano 」があります。 スポンサード リンク
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