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ダヴィド・イーゴレヴィチ : ミニ英和和英辞書
ダヴィド・イーゴレヴィチ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ダヴィド・イーゴレヴィチ : ウィキペディア日本語版
ダヴィド・イーゴレヴィチ[ちょうおん]

ダヴィド・イーゴレヴィチ(、1050年代後半 - 1112年5月25日)はイーゴリ・ヤロスラヴィチの子、ヤロスラフ・ウラジミロヴィチの孫である。ヴォルィーニ公ルーツク公ドロゴブージ公、またトムタラカニ公:1081年 - 1082年。11世紀末のルーシ諸公の内紛に果敢に介入した。
== 生涯 ==
誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、イズゴイ・クニャージとなり、ヤロポルクの下で過ごしていたことが判明している。1081年、同じくイズゴイ・クニャージとなっていたヴォロダリ(トムタラカニ公であった父ロスチスラフの死亡後、トムタラカニ(ru)を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニではキエフ大公フセヴォロドポサードニク(代官)を追放したが、2年後には自身がオレグ(ru)に追放された。ダヴィドはドルジーナ(従士隊)を集め、ドニエプル川河口でビザンツ帝国への交易路(:ヴァリャーグからギリシャへの道)を封鎖した。1084年にはキエフ大公フセヴォロドから、ヴォルィーニ公国の都市ドロゴブージュ分領地として受領している。1086年、、ヴォルィーニのヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドはヴォルィーニ公国を得た。またスヴャトポルクと協定を結び、ガーリチ地方のヴォロダリペレムィシュリ公国ヴァシリコテレボヴリ公国(2人の公は兄弟。)の奪取を試みていた。1097年リューベチ諸公会議では、ダヴィドのヴォルィーニ公国領有が承認された。
リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかしブジスクにおいて、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公スヴャトポルクにヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。
その後もダヴィドはヴォルィーニをめぐる闘争を続けた。1099年にはポロヴェツ族ハンボニャークを味方に引き入れると、ヴャグル川の戦いで勝利し、ヴォルィーニとルーツクを手に入れた。しかし1100年、ウヴェティチ諸公会議(ru)で、ヴァシリコの目をえぐったことを理由にその所有権を剥奪された。ヴォルィーニの代替地として、ヴォルィーニ地方の都市であるブジスク、オストログヅブノチャルトルィンスク、後にはさらにドロゴブージュを得た。所領の首都はブジスクに置かれた〔Історія міста. Буськ. 〕。
ダヴィドは1112年5月25日にドロゴブージュで死亡した。1937年から翌年にかけての、ダヴィド・ハラドク(ベラルーシ南部の市)の都市基盤の発掘調査中に発見されたクニャージ(公)の墓の遺骨は、ダヴィドのものであると考えられている。
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