|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 駐 : [ちゅう] (pref) resident ・ 駐英 : [ちゅうえい] (n) stationed or resident in the UK ・ 亡命 : [ぼうめい] 1. (n,vs) emigration 2. exile 3. flight from one's country 4. defection ・ 命 : [めい, いのち] 【名詞】 1. command 2. decree 3. life 4. destiny ・ 政 : [せい, まつりごと] 【名詞】 1. rule 2. government ・ 政府 : [せいふ] 【名詞】 1. government 2. administration
チェコスロバキア亡命政府(チェコスロバキアぼうめいせいふ、、)は、ナチス・ドイツによって分割・消滅したチェコスロバキアの再建を目指した亡命政府。 == 前史 == 1938年9月30日に行われたミュンヘン会談の結果、チェコスロバキアはズデーテン地方の割譲を余儀なくされた。大統領エドヴァルド・ベネシュは責任を取って10月5日に辞任した。この後チェコスロバキアでは自治を求める動きが高まり、10月6日にはジリナ協定によってスロバキアに、10月6日にはカルパティア・ルテニアに自治政府が成立した。11月30日にはエミール・ハーハが大統領となった。 ベネシュ夫妻はしばらく休養をとったのち、10月22日にロンドンへ亡命した。しかしイギリス政府は「ミュンヘンの平和」が乱れることを恐れ、ベネシュに活動の自粛を求めた〔矢田部(2004:230-229)〕。ベネシュは甥の家に住み込み、かつての同僚政治家と連絡を取っていた。1939年3月15日にはドイツがチェコスロバキアを解体し、ベーメン・メーレン保護領とし、スロバキアを独立させた(スロバキア共和国)。しかしベーメン・メーレン保護領はドイツの事実上の領土であり、スロバキアも保護国であった。ベネシュは元大統領の肩書きでイギリス・フランス・アメリカ・ソビエト連邦、国際連盟にミュンヘン協定違反であると抗議電報を送ったが、列強や連盟が動くことはなかった。 しかしこのベネシュの行動にチェコスロバキア駐米公使フルバン(Vladimìr Hurban)が賛同し、独立回復運動のための指導的役割を果たすよう要請した〔矢田部(2004:228)〕。ベネシュはこれを受け、チェコスロバキアの在外公館やチェコ人・スロバキア人の移民団体などと接触した。フルバン、駐英公使ヤン・マサリク、駐ソ公使ズデニェク・フィールリンゲル(:en:Zdeněk Fierlinger)などの在外公使がベネシュ支持にまわり、チェコ民族同盟、チェコ・カトリック教徒民族同盟、スロバキア民族同盟の移民団体はチェコスロバキア民族会議を結成してチェコスロバキア解放運動のサポートに当たることになった。一方でアメリカ・スロバキア人連盟のようにベネシュ側に反発する動きもあった〔矢田部(2004:228-227)〕。5月末にはベネシュとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト会談が実現した。ルーズベルトは英・仏の行動を批判し、チェコスロバキアの現状を容認しないという発言を行ったが、亡命政府成立を容認するなどの動きは取らなかった〔矢田部(2004:227-226)〕。一方イギリス政府は5月にスロバキア共和国を仮承認し、ベネシュに対して再度行動自粛を要請するなどしていたが、ウィンストン・チャーチルやアンソニー・イーデンなど、ベネシュの動きを支援する政治家も存在していた〔矢田部(2004:226-225)〕。 フランス政府はベネシュの動きとは連絡を取らず、エドゥアール・ダラディエ首相に近いスロバキア人の駐仏公使ステファン・オススキー(:en:Štefan Osuský)のグループと連携をとる動きを見せていた〔矢田部(2004:224-225)〕。ベネシュとオススキーのグループは政治的統合に向けて話し合いを行ったが、交渉は難航した。 また、ズデーテン地方を含めるチェコスロバキア内部のドイツ人を支持基盤に持つチェコスロバキア共和国ドイツ社会民主党(en)の亡命組織ズデーテン・ドイツ社会民主党も戦後の自治権拡大を目指してベネシュ側やイギリス政府と交渉を続けていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェコスロバキア亡命政府」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Czechoslovak government-in-exile 」があります。 スポンサード リンク
|