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チェリーバレー虐殺 : ミニ英和和英辞書
チェリーバレー虐殺[ちぇりーばれーぎゃくさつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
虐殺 : [ぎゃくさつ]
  1. (n,vs) atrocity 2. massive killing 
: [さつ]
 【名詞】 1. kill 2. murder 3. butcher 4. slice off 5. split 6. diminish 7. reduce 8. spoil 

チェリーバレー虐殺 : ウィキペディア日本語版
チェリーバレー虐殺[ちぇりーばれーぎゃくさつ]

チェリーバレー虐殺(チェリーバレーぎゃくさつ、)は、アメリカ独立戦争1778年11月11日ニューヨーク東部のチェリーバレーにあった砦と村を、イギリス軍とイロコイ族インディアンが攻撃したものである。この戦争を通じて最大級に恐ろしいフロンティアでの虐殺と言われてきた〔Murray, p. 64〕。イギリス軍正規兵、ロイヤリスト民兵、イロコイ連邦に属するセネカ族とモホーク族インディアンの混成部隊がチェリーバレーに下ってきた。守備隊は警告を受けていたにも拘わらず、攻撃に対する備えができていなかった。この襲撃の間に、特にセネカ族は非戦闘員を標的にし、多くの武装守備兵に加えて非戦闘員30人を殺したと伝えられている。
この襲撃はウォルター・バトラーの全体指揮下にあったが、バトラーはインディアンに対してはその権限をほとんど行使しなかった。歴史家のバーバラ・グレイモントは、バトラーの指揮を「犯罪的に無能」と表現している〔。セネカ族は、7月3日のワイオミングの戦いで残虐行為を働いたと告発されたこと、およびこの虐殺の少し前に、植民地人がセネカ族の前進作戦基地であるユナディラ、オナカガ、タイオガを破壊したことに怒っていた。バトラーのインディアンに対する権威は、モホーク族指導者のジョセフ・ブラントを粗略に扱ったことで台無しにされていた。残虐行為が起こるままにさせたと非難されたことに対し、セネカ族を拘束する力は無かったと繰り返し主張した。
ブラントは1778年の作戦期間に残酷であるという不当な評判を得ていた。ワイオミングの戦いでは戦場に居なかったが、多くの者がブラントが居たと考えた。またチェリーバレーで起きた残虐行為を積極的に抑えようとしていた。この虐殺は報復の呼びかけに繋がり、1779年のサリバン遠征ではイロコイ族をニューヨーク西部から追い出すことになった。
== 背景 ==

1777年、イギリス軍将軍ジョン・バーゴインが、ハドソン川流域の支配を巡って作戦を展開した。バーゴインはこの年10月、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。その後のアップステート・ニューヨークはフロンティア戦争となった〔Graymont, pp. 155–156〕。モホーク・バレーは土壌が肥沃だったので、愛国者軍に供給する穀物が大量に栽培されたために特に標的とされた。ケベック植民地のイギリス軍当局は、ロイヤリストとインディアン・ゲリラ戦士に物資や武器を与えて支援した〔Kelsay, p. 212〕。1777年から1778年に掛けての冬、ジョセフ・ブラントなどイギリス軍と同盟するインディアンはニューヨークとペンシルベニアのフロンティアにある開拓地攻撃の作戦を立てた〔Graymont, p. 160〕。1778年2月、ブラントはオナカガ(現在のニューヨーク州ウィンザー)に作戦基地を設立した。イロコイ族やロイヤリストの混成部隊を徴募し、5月に行動を始めたときは総勢200ないし300名になっていたと推計されている〔Barr, p. 150〕〔Kelsay, p. 216〕〔Graymont, p. 165〕。ブラントの目的の1つは部隊の食料を確保することであり、またサスケハナ川バレーでの作戦展開を計画していたジョン・バトラーの部隊にも食料を供給することだった〔Halsey, p. 207〕。
ブラントは5月遅くにコブルスキルを襲撃することでその作戦を開始し、夏の間フロンティアの集落に対する襲撃を続けた〔Graymont, pp. 165–167〕。この地域を守っていた民兵隊や大陸軍が現場に到着する前に襲撃隊は逃亡してしまっているのが常だったので、守備隊は襲撃隊に対して無力だった〔Halsey, pp. 212–220〕。9月にブラントとバトラー・レンジャーの幾らかがジャーマンフラッツを攻撃した後、アメリカ側は懲罰遠征隊を組織し、10月初旬にはユナディラとオナカガの村を破壊した。
ブラントがモホーク・バレーで活動を続ける一方で、バトラーは大規模な混成部隊を率いて7月初旬にペンシルベニア北部のワイオミング・バレーを襲撃した〔Graymont, pp. 167–172〕。この行動が事態を複雑にした。バトラー隊に入っていたセネカ族が非戦闘員を虐殺したと告発されたことであり、それから間もない時期に釈放された愛国者民兵が釈放条件を無視し、タイオガに対する報復遠征に参加したことだった。特にセネカ族に対する告発にはおぞましい宣伝が伴ったことで、セネカ族を怒らせ、さらにユナディラ、オナカガ、タイオガが破壊されたことでその怒りが募った〔Barr, p. 154〕。ワイオミング・バレーへの攻撃にブラントは参加していなかったが、愛国者の中に特に残酷な敵としてブラントを見る意識を加速させた〔Kelsay, p. 221〕。
その後ブラントはウォルター・バトラー(ジョン・バトラーの息子)大尉の部隊に合流した。その部隊はジョン・マクドネル大尉とウィリム・コールドウェル大尉が指揮するバトラー・レンジャーの2個中隊からなり、スコハリー・クリーク沿いの主要開拓地であるチェリーバレーへの攻撃を目指していた。バトラーの部隊には、コーンプランターあるいはサエンクラータのどちらかが率いるセネカ族300名に、イギリス正規軍第8歩兵連隊の兵士50名も加わっていた〔Graymont, p. 184〕〔Kelsay, p. 229〕。この部隊がチェリーバレーに移動する途中で、ブラントがロイヤリストを徴募したことについてバトラーと喧嘩になった。ブラントがこのようなことに成功したことでバトラーは不満であり、ブラントのロイヤリスト志願兵から食料を取り上げると脅した。ロイヤリストの中の90名は諦めて遠征隊を去り、ブラント自身もそうするところだったが、インディアンのブラント支持者が説得して思いとどまった〔Kelsay, pp. 229–239〕。この論争はインディアンにとって納得のいかないものであり、バトラーのインディアンに対する脆弱な権威をさらに弱らせた可能性がある〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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