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チジックハウス (Chiswick House) は、イギリス、西ロンドンのチジック、バーリントン通りにあるパラディオ様式の建物 (ヴィラ) である。リチャード・ボイル、第3代バーリントン伯爵 (Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington、1694年 - 1753年) の設計で1729年に完成した、ロンドンに現存するパラディオ様式の建築物のうちおそらく最も美しい建物である。26.33ヘクタール (65.1エーカー) 〔 "Chiswick House, Hounslow, England" ''Parks & Gardens UK.'' Parks and Gardens Data Services. 2015年12月7日閲覧〕 の敷地を持つ建物と庭園は、その大半を建築家で造園家のウィリアム・ケント (William Kent、1685年 - 1748年) によって作られ、イギリス式庭園 (English landscape garden) の初期の代表作の一つである。 最初の所有者であるリチャード・ボイルが1753年に亡くなり、翌1754年には生き残っていた彼の最後の娘 、 シャーロット・キャヴェンディッシュ (Charlotte Cavendish, Marchioness of Hartington、1731年 - 1754年) が、そして1758年に彼の未亡人、ドロシー・サヴィル (Dorothy Savile、1699年 - 1758年) が亡くなると、資産はシャーロットの夫であったウィリアム・キャヴェンディッシュ、第4代デヴォンシャー公爵 (William Cavendish, 4th Duke of Devonshire、1720年 - 1764年) に譲られた。さらに1764年にウィリアムが亡くなると邸宅は彼らの長男、ウィリアム第5代デヴォンシャー公爵 (William Cavendish, 5th Duke of Devonshire、1748年 - 1811年) (英語版) に譲られた。ウィリアムが1774年に結婚した妻、ジョージアナ・スペンサーはファッションや政治の世界で非常に目立ち、物議を醸す存在であったが、彼女は長い間ここを別宅として、そしてまたホイッグ党の本拠地として使った。チャールズ・ジェームズ・フォックス (Charles James Fox、1749年 - 1806年) は1806年にここで亡くなり、トーリー党首相、ジョージ・カニング (George Canning、1770年 - 1827年) もまた1827年にこの邸宅のジョン・ホワイトウィングにある寝室で亡くなった。 19世紀の間この邸宅は荒廃していき、1892年にはキャヴェンディッシュ家により貸し出されて、精神病院の収容棟、チジック・アサイラム (Chiswick Asylum) (英語版) として使われるようになった。1929年、第9代デヴォンシャー公爵はミドルセックス州議会にチジックハウスを売却し、その後消防署として使われることとなった。建物は第二次世界大戦で損傷を受け、1944年にはドイツのV2ロケットで両ウィングの片方が破壊された。1956年には両ウィングとも取り壊された。 現在、この建物はイギリスの指定建造物 (Listed building) (英語版) のグレードIにリストアップされており、イングリッシュ・ヘリテッジ (イングランドの歴史的建造物を保護する目的で英国政府により設立された組織)により維持されている。 == 歴史 == === 初期 (1610年 - 1682年) === 建築当初のチジックハウスはエドワード・ ウォードー (Edward Wardour)(英語版) 所有のジャコビアン様式の建築物 (Jacobean architecture、イングランド王ジェームズ1世時代の建築様式)(英語版) で、おそらく彼の父によって建てられた 〔 Henry Lancaster (2010)."WARDOUR, Sir Edward (1578-1646), of Chiswick House, Chiswick, Mdx. and St. Martin-in-the-Fields, Westminster" ''The History of Parliament'' 2015年12月8日閲覧〕。ヤン・キップ (Jan Kip、1652年 - 1722年、オランダの彫刻家)(英語版) の17世紀後半のチジックハウスの彫刻には、1610年建築と刻まれており〔"Chiswick House" ''Current Archaeology'' (222). 2015年12月8日閲覧〕、中庭を中心に四方に建てられている〔。1624年、ウォードーは建物をロバート・カー、初代サマセット公 (Robert Carr, 1st Earl of Somerset、1587年-1645年)(英語版) に売却した〔〔Edward Wedlake Brayley; ames Norris Brewer; Joseph Nightingale (1816).''London and Middlesex'' 4. Vernor, Hood, and Sharpe. p. 315.〕。建物は非常に大きく、1664年の暖炉税 (Hearth tax)(英語版) の税務書類によると、33の暖炉が記録されている〔 The Estates Around Chiswick House Brentford and Chiswick Local History Society 2015年12月8日閲覧〕。建物は第一次イングランド内戦の間、ターナムグリーンの戦い (Battle of Turnham Green、1641年)(英語版) の王党派戦線の南端にあった〔 "The Battle of Turnham Green" Chiswick's Local Website 2015年12月8日閲覧〕。1682年、建物はチャールズ・ボイル、第3代ダンガーヴァン子爵 (Charles Boyle, 3rd Viscount Dungarvan、1639年-1694年)(英語版) により購入された〔Kenneth Allinson (13 May 2013).''Architects and Architecture of London'' Taylor & Francis. p. 84. 2015年12月8日閲覧〕。 === ボイル家 (1682年 - 1758年) === チジックハウスはジャコビアン様式のまま、ロンドン中心部にあるボイル家の邸宅であるバーリントンハウスの別宅として使われていた〔Furniture History Society (1986).''Furniture history'' . p. 84. 〕〔Bryant, Julius; English Heritage (1993).''London's country house collections''. Scala Publications in association with English Heritage. p. 32.〕。1725年の火災の後、第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイルは家長となり〔、チジックハウスの西側に新しい邸宅 (ヴィラ) を建てることにした。 1719年のイタリア旅行で、バーリントンはパラディオ様式建築へ大きな情熱を持つようになった〔Rogers, Pat (2004). '' The Alexander Pope encyclopedia''. Greenwood Publishing Group. p. 61. ISBN 978-0-313-32426-0.2015年12月8日閲覧〕〔Baird, Rosemary (15 August 2007). ''Goodwood: Art and Architecture, Sport and Family'' Frances Lincoln Ltd. p. 19. ISBN 978-0-7112-2769-9.〕。彼はローマ建築の遺跡を詳細に視察したり、イタリア旅行の細かな記録を取っていたわけではなく、古典的伝統の通訳としてのアンドレーア・パッラーディオ (Andrea Palladio、1508年 - 1580年、イタリアの建築家、パラディオ様式建築で知られる。) とヴィンチェンツォ・スカモッツィ (Vincenzo Scamozzi、1548年 - 1616年、ヴェネツィア共和国の建築家でパッラーディオの後継者) に完全に頼っていた〔Beltramini, Guido; Vicenza, Centro internazionale di studi di architettura "Andrea Palladio" di (15 October 1999).''Palladio and Northern Europe: books, travellers, architects'' Skira. ISBN 978-88-8118-524-5.〕。彼の発想の別の源泉は、収集していたパッラーディオやイニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年 - 1652年)、イニゴーの弟子のジョン・ウェッブ (John Webb、1611年 - 1672年)(英語版) による図面であった。ハワード・コルビン (Howard Colvin、1919年 - 2007年、イギリスの建築史学者) によると、「バーリントンの使命は、ウィトルウィウス (Marcus Vitruvius Pollio、紀元前80年頃の古代ローマの建築家) が記したように、あるいは残存する遺跡が例示しているように、あるいはパッラディーオ、スカモッツィ、ジョーンズによって実践されているように、「オーガスタン時代のイングランド」 (Augustan England) においてローマ建築の規範を回復することであった〔Beltramini, Guido; Burns, Howard (1 November 2008). ''Palladio'' Royal Academy of Arts. ISBN 978-1-905711-24-6. 〕。」 バーリントン自身優れたアマチュア建築家であり、(ホレス・ウォルポール (Horace Walpole、1717年 - 1797年) の言によると) 「芸術のアポローン〔Wilton-Ely, John (1973). ''Apollo of the arts: Lord Burlington and his circle''. Nottingham University Art Gallery. p. 31.〕」が、庭園を設計をする上で主導的な役割を果たしたウィリアム・ケントの助けを借りて、邸宅を設計した〔 Groves & Mawrey, p.68〕。バーリントンは欧州最高の絵画の内の数枚〔Bryan, Julius (1993). ''London's Country House Collections. Kenwood, Chiswick, Marble Hill, Ranger's House''. London: Scala Publications for English Heritage. p. 36.〕を含むと考えられていた彼の美術コレクションや、1714年の彼の最初の欧州へのグランドツアー (17-18世紀、イギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な国外旅行) の際に購入したものを含む選ばれた家具を収容するために、十分な敷地を取って邸宅 (ヴィラ) を建築した。工事は1726年から1729年にかけて行われた〔 Randhawa, Kiran (19 December 2007). "Chiswick House set for £12m facelift". ''Evening Standard''. London.〕。 1753年のバーリントンの死後、彼の妻ドロシー (Dorothy Savile、1699年 - 1758年) と彼の娘で1748年にウィリアム・キャヴェンディッシュ (William Cavendish、1720年 - 1764年、後の第4代デヴォンシャー公爵) と結婚していたシャーロット (Charlotte Cavendish、1731年 - 1754年) が家を継承した。1754年12月にシャーロットが亡くなり〔''Journal of the Derbyshire Archaeological and Natural History Society'' Derbyshire Archaeological Society. 1903. p. 130.〕、1758年8月にはバーリントン夫人が亡くなった〔Corp, Edward T. (1998). ''Lord Burlington: the man and his politics : questions of loyalty'' Edwin Mellen Press. ISBN 978-0-7734-8367-5.〕。 === キャヴェンディッシュ家 (1758年 - 1929年) === 1758年のバーリントン夫人の死後、邸宅と庭園はキャヴェンディッシュ家に譲られた。ウィリアム・キャヴェンディッシュは、彼の息子ウィリアム、第5代デヴォンシャー公爵 に財産を残し1764年に亡くなった。1774年、ウィリアムはジョージアナ・スペンサー (Georgiana Spencer、1757年 - 1806年) と結婚したが〔 Lodge, Edmund (1867). ''The peerage and baronetage of the British Empire as at present existing'' Hurst and Blackett. p. 179. 2015年12月10日閲覧〕、彼女は彼女の「地上の楽園」と言われるほど、チジックハウスで時間を費やし楽しんだ〔Gross, Jonathan David (July 2004). ''Emma, or, The unfortunate attachment: a sentimental novel'' SUNY Press. p. 11. ISBN 978-0-7914-6146-4. 2015年12月10日閲覧〕〔Foreman, Amanda (2001). "Georgiana's World. The Illustrated Georgiana, Duchess of Devonshire". Harper Collins. p. 182.〕。彼女は定期的に庭園でのティーパーティーのために ホイッグ党のメンバーを招待した〔''Choice: publication of the Association of College and Research Libraries, a division of the American Library Association'' American Library Association. 2000. 2015年12月10日閲覧〕〔Jullian, Philippe (1967). ''Edward and the Edwardians'' Viking Press.〕。1788年、キャヴェンディッシュ家はジャコビアン様式の建物を解体し、邸宅の収容人数を増やす目的で両ウィングを増築するために、建築家のジョン・ホワイト (John White) を雇った〔Hibbert, Christopher; Weinreb, Ben (8 August 2008). '' The London Encyclopaedia'' Macmillan. p. 165. ISBN 978-1-4050-4924-5.〕。公爵夫人は1774年の建築家ジェームズ・ワイアット (James Wyatt、1746年 - 1813年)(英語版) 設計による「伝統的な橋」(the Classical Bridge) を建設し〔、新しいウィングの壁や建物の側面にバラを植栽した。彼女は1806年に亡くなった。 1813年、外国産のフルーツや椿を収容するために、300フィート (91メートル) の温室 (コンサーバトリー、conservatory) がサミュエル・ウェア (Samuel Ware、1781年 - 1860年〔Royal Academy of Arts Collections 2015年12月11日閲覧〕) によって建てられた。園芸家ルイス・ケネディー (Lewis Kennedy) は温室の周りにイタリア風幾何学模様の庭園を造った。1827年、トーリー党首相ジョージ・カニング (George Canning、1770年 - 1827年) は容体が急激に悪化し、1806年にチャールズ・ジェームズ・フォックス (Charles James Fox、1749年-1806年) が亡くなった同じ部屋で死去した〔England (1840). ''The Parliamentary Gazetteer of England and Wales. 4 vols. bound in 12 pt. with suppl''. p. 442. 2015年12月11日閲覧〕。 1862年から1892年までの間、邸宅はキャヴェンディッシュ家によって貸し出され、その中には1867年のサザーランド公爵夫人〔Cockburn, J. S.; King, H. P. F.; McDonnell, K. G. T.; University of London. Institute of Historical Research (1995). '' A History of the county of Middlesex'' Oxford University Press for the Institute of Historical Research. p. 75. 2015年12月11日閲覧〕や、1870年代のプリンス・オブ・ウェールズ (Prince of Wales)〔'' Country Life'' . Country Life, Ltd. 1979〕、1881年から1892年までの、デザイナー、ウィリアム・バージェス (William Burges、1827年 - 1881年) のスポンサーであったビュート侯爵〔Hewlings, Richard (2009). ''Chiswick House and Gardens''. English Heritage guidebook. pp. 52–53.〕などがいた。1892年から第9代デヴォンシャー公爵は邸宅をトーマス・シーモア (Thomas Seymour) とチャールズ・モールズワース・テューク (Charles Molesworth Tuke、Thomas Harrington Tuke(英語版) の息子) に貸し、彼らはそこを1928年まで富裕層のための精神病院、チジック・アサイラム (Chiswick Asylum)(英語版) として使った〔Weinreb, Ben; Hibbert, Christopher (20 October 1983). ''The London Encyclopaedia'' MacMillan. p. 154. ISBN 978-0-333-32556-8. 〕。1897年、正門の上にあった2体のスフィンクスはヴィクトリア女王在位60年周年記念式典 (Diamond Jubilee、(英語版)) の際にグリーンパーク (Green Park)(英語版) に移設され、それらは戻ってくることはなかった〔''The Restoration of Chiswick House Gardens'' London Garden Trust. 2015年12月11日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チジックハウス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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