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チゾーム : ミニ英和和英辞書
チゾーム[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チゾーム ( リダイレクト:エリック・チゾーム ) : ウィキペディア日本語版
エリック・チゾーム[ちょうおん]

エリック・チゾームErik Chisholm1904年1月4日 - 1965年6月8日)は、スコットランド出身のイギリス作曲家指揮者
チゾームはしばしば、「スコットランドの忘れられた作曲家」として知られる。チゾームの伝記作家によれば、彼は「ケルトの語法を形式のみならず内容にも取り入れた最初の作曲家であり、理解の深さと大胆さという意味においてその功績はバルトークに比肩し得る。」そのため、彼は「マックバルトーク ''MacBartók''〔訳注:"Mac"がケルト語派に属するゲール語において使用される単語であることに注意。参照「マック (ゲール語)」〕」とあだ名された〔。また彼はケルトバレエの創始者であり、マーガレット・モリス〔訳注:イギリスの舞踏家。英国で最初にイサドラ・ダンカンの技法に賛同した。(Margaret Morris)〕と共に初のスコットランドの完全なバレエ「孤独な人魚 ''The Forsaken Mermaid''」を製作した〔。彼はケープタウン大学の教授、南アフリカ音楽大学の音楽監督となり、19年間務めた。チゾームはケープタウンに南アフリカ大学オペラ会社を設立し、スコットランド、イングランド南アフリカに新たなオペラを紹介するのに欠かせない役割を果たした。彼は1965年にこの世を去るまでに、100を超える作品を作曲した。作風はスコットランドの音楽にバルトークヒンデミットカゼッラの要素を取り入れたものである。
== 生涯 ==

=== 幼少期から大学まで ===
エリック・チゾームは、家屋塗装工のジョン・チゾーム(John -)とその妻エリザベス・マギチー・マクラウド(Elizabeth McGeachy Macleod)の間の息子として生まれた。彼は13歳の時に健康状態が優れないことを理由にクイーンズ・パーク・スクール(Queen's Park School)を退学するが、作曲に才能を見せ始めており子どもの頃に出版された作品もある〔。彼はピアノをスコットランド王立音楽院〔訳注:1845年設立。スコットランド、グラスゴー中心部にある。(Royal Conservatoire of Scotland)〕でフィリップ・ホルステッド(Philip Halstead)に、オルガンをグラスゴー大聖堂〔訳注:遅くとも12世紀までには建立されていたゴシック様式の大聖堂。(Glasgow Cathedral)〕のオルガニストだったハーバート・ウォルトン(Herbert Walton)に師事した。12歳の時までにはオルガンリサイタルを開いており、中でもキングストン・アポン・ハルで行ったものは重要である。ピアニストのレフ・ポウニッシュオフ〔訳注:1891年ウクライナ生まれのピアニスト、作曲家。1920年代以降イギリスに家を持ち、主に西側で活動した。(Leff Pouishnoff)〕が彼の担当となり指導を行った。チゾームは1927年カナダノバスコシア州に赴き、そこでニュー・グラスゴー〔訳注:ノバスコシア州、ピックトウカウンティen)の町。(New Glasgow, Nova Scotia)〕のウェストミンスター長老派教会のオルガニスト、合唱指導者に任命される。また、ピックトウ・アカデミー〔訳注:1816年設立のピックトウのセカンダリースクール。自由主義で無宗教の学校。(Pictou Academy)〕の音楽科の主任となった。
しばらくして、チゾームはスコットランドに帰国してバロニー教会(Barony Church)のオルガニストになった。彼は小学校を卒業していなかったため、大学で学ぶことができなかった。後に妻となるダイアナ・ブロディ(Diana Brodie)の影響もあり、彼はなんとか大学に特例入学できるよう、音楽つながりの顔のきく友人たちに推薦状を書いて欲しいと持ちかけた。1928年エディンバラ大学に入学を許され、友人でもあり、かつ担当教官となった高名な音楽学者サー・ドナルド・トーヴィーに学んだ。チゾームは1931年に音楽学士(Bachelor of Music)、1934年には音楽博士(Doctor of Music)の学位をとった。大学在学中の1928年にスコティッシュ・バレエ協会を創設し、1929年にはフランシス・スコット〔訳注:1880年、スコットランド生まれの作曲家。ジョーダンヒル教員訓練大学の講師となり、25年以上務めた。(Francis George Scott)〕、パット・シャノン(Pat Shannon)といった同僚の作曲家と共に、現代音楽宣伝活動協会を設立した。また彼は1930年から1934年の間、グラスゴー・ウィークリー・ヘラルドとスコティッシュ・デイリー・エクスプレスで音楽批評の仕事もしていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エリック・チゾーム」の詳細全文を読む




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