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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
チプリアーノ・デ・ローレ(Cypriano de Rore または Cipriano de Rore, ? - 1565年9月11日もしくは9月20日)は、ネーデルラント出身の作曲家・音楽教師。イタリアで活躍したフランドル楽派の作曲家であり、ジョスカン以後を担った最初の世代の代表的人物であっただけでなく、16世紀中葉のマドリガーレ作曲家として最も傑出した存在であった。後期ルネサンス音楽様式の発展に力があり、半音階やきわめて表情豊かな実験的な作曲様式は、その後の世俗音楽に決定的な一打を与えた〔Owens, Grove Online〕。 ==生涯== 幼少期についてはほとんど知られていない。生年については、歿年(パルマの大聖堂にある墓石に49歳と彫られていること)から、1515年か1516年と推測されており、出生地はおそらくフランドルのロンセ(Ronse)であろう〔Einstein, Vol.1 p. 384〕。アントウェルペンで早期の音楽教育を受けた可能性がある。また、早くからパルマ公妃マルゲリータと所縁があり、マルゲリータの1533年のナポリ行きにあたって随行員としてイタリアに行き、そのまま同地で一生を送ったのだと信じられている。マルゲリータがアレッサンドロ・デ・メディチと1536年に結婚した時には、すでに自活していたかもしれないが、マルガレータに仕えていた頃は、イタリアで何度か音楽教育を受けたと信じられている〔〔Johnson, p 185〕。 ヴェネツィアでヴィラールトに師事したと長年に渡って唱えられてきたが、この説を補強する特定の文書は知られていない。ヴェネツィアの出版物のいくつかの史料では、ローレがヴィラールトの「信奉者」や「模倣者」であったとしているが、門弟であったとは特筆していない。同様に、サン・マルコ寺院の聖歌隊員であったとする以前の説も、確証があるわけではない。それでもローレはヴィラールトと近しい間柄にあり、たいていの活動でヴィラールトとつながりを持っていた〔。1542年11月3日に書かれた書簡から、ローレが当時ブレーシャに居り、1545年4月16日まで同地に滞在していたことが分かっている〔。この間に作曲家として名声を得るようになり、ヴェネツィアの出版社スコットー(Scotto)に支持されて、1542年に最初のマドリガーレ集が、1544年と1545年に2巻のモテット集が出版された〔Johnson, p 185-187.〕。2年後にこれらの曲集はスコットー社やガルダーネ社(Gardane)から重版されており、その人気の高さを物語っている〔Johnson, p 186〕。 その後ローレはフェラーラに行き、給与明細書から、1546年5月6日より同地の宮廷楽長(''maestro di cappella'')に就任したことが判明している。この頃から、非常に実り豊かな創作活動の開始となる。エルコレ・デステ2世に使えていた頃にミサ曲やモテット、シャンソン、そして言うまでもなくマドリガーレを作曲した。世俗曲の多くは、フェラーラ宮廷の事柄も含めて時事の話題を取り上げている。1556年にエルコレ2世より、格別の功労をねぎらって、聖職禄を賜った。またフェラーラ時代には、ミュンヘンのバイエルン公アルブレヒト5世との関係を深め、アルブレヒト5世に贈った楽曲のうち、26曲のモテットの手稿譜は、ハンス・ミューリヒによる細密画を丹念にあしらわれて製本された〔Einstein, Vol. I p. 386〕。ローレは、長患いに苦しむ両親を気遣い1558年に帰省した際、郷里フランドルへ(またはフランドルから)の道中でミュンヘンに立ち寄っている。 1559年にエルコレ2世が崩御し、アルフォンソ2世が公位を継承すると、フェラーラを去った。おそらくアルフォンソ2世が、外国人よりも、エステ家の古くからのつきあいのあるフランチェスコ・ダッラ・ヴィオラを贔屓したからであろう〔。八十年戦争による荒廃のため、故国での立場は潰えており、1559年に再び帰国したときには、地元ロンセの破壊を目の当たりにすることになった。 フェラーラで再雇用の見込みが不可能になったため、ローレはファルネーゼ家の宮廷に伺候し、一度アントウェルペンに滞在した後、1560年に再びイタリアへ――今度はパルマに――引き返した。1563年までブリュッセルでパルマ公妃マルゲリータに、またパルマでその夫オッターヴィオ・ファルネーゼに仕えるが、パルマ時代は不幸せであった。パルマがヴェネツィアやフェラーラほどの文芸の水準になかったため、1563年に同地を去り、巨匠ヴィラールトが他界すると、その後を襲って栄えあるサン・マルコ寺院の楽長職に就任した。しかしこの地位も1564年までしか続かず、寺院の無秩序と俸禄の低さを理由にして、再びパルマに復帰する〔Einstein, Vol. I, p. 388〕。その翌年に他界しており、甥のロドヴィコ・ローレによって墓碑が建てられた。その銘には、チプリアーノ・デ・ローレの名は未来永劫に渡って忘れ去られはしまいと刻まれている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チプリアーノ・デ・ローレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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