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チプロフツィ(ブルガリア語: / ''Chiprovtsi''〔本記事ではラテン文字への転写方式としてStreamlined System for the Romanization of Bulgarianを用いた。そのほかの転写方法では''Čiprovci''、''Chiprovci''、''Chiprovtzi''などのようになる。〕、IPA: 〔以下の書籍によって示された音声表記法による: 〕)は、ブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。モンタナ州に属する。バルカン山脈の西部、オゴスタ川( / ''Ogosta'')の岸にそって広がる。セルビアとブルガリアとの国境に近い。2008年の時点で、チプロフツィの町にはおよそ2000人の住民がある。また、自治体全域ではおよそ3900人の人口がある。チプロフツィ自治体には、チプロフツィの町のほかに9つの周辺の集落が含まれている。 チプロフツィは、中世後期に鉱業と鍛冶の拠点として築かれたものと考えられている。この地にやってきたドイツ人の鉱石採掘者たちによってカトリックの信仰が持ち込まれ、町は文化的・経済的な拠点となるとともにブルガリアにおけるカトリックの拠点となり、オスマン帝国統治時代の初期までブルガリア北西部でその地位を保った。しかし、その繁栄は1688年の反オスマン帝国のチプロフツィ蜂起によって終わりを迎えた。蜂起が鎮圧されてからは、町の住民の一部はハプスブルク家の支配する地域へと逃れた。町を脱出できなかった者たちはオスマン帝国によって殺害されるか奴隷化された。 30年間にわたって無人となった後、1720年代からは町には正教徒のブルガリア人が居住を始めた。これに続いて、チプロフツィの町はブルガリアの絨毯生産の拠点として発展することになった。このほかの伝統的な産業には、畜産、農業、皮革売買などがあった。こんにち、チプロフツィ自治体では人口減少に直面しており、失業率も高い。しかし、この地の蛍石の鉱脈の大規模な掘削に対して投資され、また観光産業によって、町の経済が維持されている。 == 呼称 == 音声学者のイヴァン・ドゥリダノフ( / ''Ivan Duridanov'')によれば、チプロフツィの原初の呼称は「キプロヴェツ」( / ''Kipurovets'')であったといわれている。現在の呼称である「チプロフツィ」は、音声の遷移、そして語中音消失によって「キプロヴェツ」から変化したものとみられる。この呼称はスラヴ語起源であるが、古代ギリシア語で庭園を意味する「」からの借用語と考えられる。この単語はセルビア語にも借用されている。また、この地名をキプラ(''Kipra'')あるいはキプロ(''Kipro'')といった人名と関連付ける研究もある。このほかに良く知られた仮説では、ドゥリダノフによって否定されているものの、この町の呼称をラテン語の「''cuprum''」(銅)と結びつけるものがあり、銅の鉱脈や古代ローマ時代にこの地域にあった銅鉱山と関連づけている〔Чолов, "Чипровци и неговата покрайнина", ''Чипровското въстатие 1688 г.''〕。 町の名前が西欧の文献に初めて登場したのは、ラテン語で書かれた1565年のものであり、「''Chiprovatz''」と記されていた。類似する名称「''Chipurovatz''」、「''Chiprouvatz''」、「''Chiprovotzii''」、「''Chiprovtzi''」、「''Kiprovazo''」、「''Chiprovatzium''」、「''Kiprovetz''」、「''Kiprovtzi''」などが16世紀から17世紀にかけての文献に見つかっている。セルビア・クロアチア語における接尾語「-」(アツ)の発音は、ブルガリア語標準形で同種の接尾語「-」(エツ)の発音と異なっている。これはイリュリア語の影響であると説明されており、セルビア・クロアチア語のダルマチア標準形はフランシスコ会の聖職者らによって17世紀にこの町で用いられていた〔 町は伝統的にいくらかの街区( / ''mahala'')に分けられてきた。その多くは住民の職業や社会的地位にちなんで命名されている。1888年、D. マリノフは、''Srebril''あるいは''Srebarna''(銀細工師)、''Kyurkchiyska''(毛皮職人)、''Pazarska''(商人)、''Tabashka''(皮革職人)、''Partsal''および''Trap''という街区の名前を記録している〔 〕。また、''Saksonska''(サクソン人)という地区が17世紀まで存在していたことも確認されている。このほかによく用いられる地域呼称には''Dolni kray''(低地)と''Gorni kray''(高地)があり、それぞれ町の中で川に近い側と山に近い側をあらわしている〔Сантова, p. 11.〕。 日本語においては、チプロヴツィやチプロブツィといった表記も見られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チプロフツィ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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