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チベット侵攻(チベットしんこう)とは、中国人民解放軍(中国共産党の軍隊)によるチベットへの侵攻をいう。侵攻は、 #チベットの東北部・東部に対して(1948-49) #中央チベットに対して(1950-51) の2段階にわかれる。 中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西蔵和平解放/བོད་ཞི་བས་བཅིངས་འགྲོལ」(シーザンフーピンチァファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている〔Rinpoche, Samdhong. Roebert, Donovan. The :en:14th Dalai Lama. (2006). Samdhong Rinpoche: Uncompromising Truth for a Compromised World : Tibetan Buddhism and Today's World. World Wisdom, Inc. ISBN 1933316209. pg 116-117〕。 「第一段階」では、中華民国の青海省長馬歩芳や西康省長劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧〔趙海峰,1991,pp.37-50。楊超,1991,pp.40-42。〕、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧〔丹増・張向明,1991,pp.121-186。〕、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。 チベットおよび西側諸国では、この侵攻を侵略としているが〔、中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。 これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った〔Goldstein, M.C., "A History of Modern Tibet" , p812-813〕。 ==背景 == 本節では、中華人民共和国によるチベット侵攻に先立つチベット各地の状況を概観する。 雍正のチベット侵攻(1723-24)・分割(1724-32)以降、チベットは西藏〔1642年に発足したガンデンポタンが統治。グシ・ハンがダライラマ五世に寄進したヤルンツァンポ河流域に加え、雍正のチベット分割の際に、タンラ山脈〜ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南西側に位置する地域があらたにガンデンポタンの管轄下に加えられ、西藏という地域的枠組みが成立。典拠・詳細は雍正のチベット分割および青海を参照。〕・青海と、隣接する中国の各省(甘粛・四川・雲南)に組み込まれた地域とに3分されていた。 *西藏は、ガリ地方・ウー・ツァン地方・カム地方の西部などに相当。 *青海は、アムド地方の西部・中央部、カム地方の北部に相当。 *その他、アムド地方の東部が甘粛省の西南部に、アムド地方の南部が四川省の西北部に、カム地方の東部が四川省の西部に、カム地方の南部が雲南省の西北部に組み込まれていた。) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チベット侵攻」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Incorporation of Tibet into the People's Republic of China 」があります。 スポンサード リンク
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