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チベット系民族(チベットけいみんぞく、)とは、言語学上としてのチベット・ビルマ語派(Bodish languages)を用いる諸族の総称である。 チベット高原を起源とするが、カシミール(ラダック)地方のパキスタン側バルティスタンの住人のように、必ずしも「チベット系民族の一員」としての自意識を持っていない集団を含む場合がある。 ==歴史== 殷周時代には羌という民族がいた。『史記索隠』が引く『竹書紀年』によると、羌は殷の奴隷として苦難を強いられたと述べている。帝辛(紂王)の代にかつての臣下だった呂尚が羌出身の姜姓とされ、周の文王・武王父子に仕えて、殷を滅ぼした戦功により、山東にある斉に封じられた。戦国時代後期の紀元前386年に田斉によって滅ぼされた。 三国時代末期~五胡十六国時代に隴西地方から魏によって蜀に移住した氐系巴賨族の首長李特が徐々に勢力を得て、成漢(成蜀)を建国して強勢を誇ったが、東晋の安西将軍桓温によって滅ぼされた。 さらに、同じ氐出身の前秦の苻堅が台頭して、これも勢力を誇るも淝水の戦いで東晋に敗れ、配下の鮮卑慕容部の慕容垂が離反する憂き目に遭い、最後は羌の首長姚萇の裏切りで非業の最期を遂げた。苻堅にかわって後秦を築いた姚萇の政権も、417年に東晋の将軍劉裕(劉宋の武帝)によって滅ぼされた。 苻堅の武将であった呂光も氐出身で、甘粛で苻堅の死を聞くと後涼を建国した。403年に後秦の姚興(姚萇の子)によって滅ぼされた。 時代は流れて、7世紀初めにチベット高原にて鮮卑慕容部の吐谷渾の支配から独立した吐蕃が勢力を得て、唐に臣属した。しかし、安史の乱が起こると、吐蕃は安禄山と組んで、唐に叛いた。以降から吐蕃は唐に対して優位に立った。唐が朱全忠によって滅んで五代十国時代になると、吐蕃は勢力を拡大した。やがて宋(北宋)の時代になると、同じチベット系羌であるタングート(モンゴル化したテュルク系という〔宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(2002年、刀水書房)137ページ、ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、平凡社)309-311ページ(ただし、311ページでは「タングートは実はチベット系である」と記述されている)。〕)と組んで、宋の背後を衝いて侵略を繰り返した。しかし、吐蕃は内乱によって滅んでしまい、王室は四散した。 一方、タングートは唐の時代から存在したが、上記の吐蕃に圧迫されて甘粛・寧夏地方に北進して、西夏を建国した。これも唐に臣属したため、鮮卑風の拓跋姓から李姓を賜った。西夏は吐蕃と異なり、はじめは宋に反抗するも次第に臣属した。同時に契丹の遼、女真の金にも臣属し、勢力を保った。やがて、モンゴル帝国の祖となるチンギス・カンが台頭すると、西夏は金の属国としてチンギス・カンと戦うが、金が援軍を送らなかったために大敗し和睦して、チンギス・カンに臣属した。しかし、後にチンギス・カンに叛いたため、1227年に滅亡した。 17世紀~18世紀にかけてモンゴル系オイラトに属するジュンガルがチベット仏教ゲルク派と密接関係にあるため、明と満洲の清とは敵対関係にあった。しかし、オイラトの首長ガルダンは清の康熙帝の遠征を受け、最後は甥のツェワンラブタン(兄センゲの子)の裏切りで、アルタイ山脈の畔まで逃れて病死した。以降のチベット系民族は清に忠節を誓い、このためにチベット地方は清の直轄領となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チベット系民族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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