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チムール帝国 : ミニ英和和英辞書
チムール帝国[くに]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 
帝国 : [ていこく]
 【名詞】 1. empire 2. imperial 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

チムール帝国 ( リダイレクト:ティムール朝 ) : ウィキペディア日本語版
ティムール朝[てぃむーるあさ]

ティムール朝ペルシア語 : تيموريان (Tīmūriyān), ウズベク語 : Temuriylar)は、中央アジアマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリアアナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い〔加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)、280頁〕。
王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。
== 歴史 ==

=== ティムールの征服事業 ===

14世紀初頭にモンゴル王族カイドゥの王国を乗っ取る形で中央アジアの東西トルキスタンに勢力を拡大したチャガタイ・ハン国は、1340年頃には早くも分裂に向かい、東トルキスタンの東チャガタイ・ハン国とマー・ワラー・アンナフルの西チャガタイ・ハン国に分かれた。西チャガタイ・ハン国では多くの有力部族が地方に割拠したためにハンの権力は早々に喪失し、各地に分領を持つ有力な遊牧貴族による群雄割拠の態をなす。この中で盗賊的な活動を行いながら小さいながらも自己の勢力を築きつつあったのが、チンギス・ハーンの出たボルジギン氏と同祖の家系を誇る名門バルラス部族の出身であるが、父の代までにすっかり零落していた没落貴族の息子ティムールであった。1360年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げると、ティムールはこれに服属してバルラス部の旧領を回復する。
やがてトゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しながら勢力を広げ、1370年までにマー・ワラー・アンナフルの覇権を確立した。彼はチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫ソユルガトミシュを西チャガタイ・ハン国のハンとして擁立し、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場においてマー・ワラー・アンナフルに住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握った。一般に、この年をもってティムール朝の確立とする。
新王朝の確立後、ティムールは東トルキスタンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、マー・ワラー・アンナフルの西のホラズムを征服した。さらにジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から亡命してきたトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、北西のキプチャク草原を友好国として中央アジアの支配を固めた。
続いて、1335年フレグ王家断絶後、イルハン朝(イル・ハン国)が解体して諸勢力の割拠していたイラン方面の経略を開始し、1380年にはマー・ワラー・アンナフルからアム川を越えてホラーサーンを征服、1388年までにイランの全域を服属させ、アルメニアグルジアからアナトリア東部までを勢力下に置いた。1393年にはイランのファールス地方を支配するムザッファル朝を征服してイランの全土を完全に制圧し、さらにカフカスからキプチャク草原に入って、ホラズムの支配をめぐってティムールと対立したトクタミシュを討ち()、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の都サライを破壊した。
1398年には矛先を変えてインドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーなどを占領した。1400年には再び西方に遠征してアゼルバイジャンからシリアイラクを席巻してマムルーク朝を破り、1402年にはアンカラの戦いオスマン帝国を破って一時的に滅亡させ、シリア、アナトリアの諸侯国にまで宗主権を及ぼしてサマルカンドに帰還した。こうしてティムールは30年間でモンゴル帝国の西半分をほぼ統一することに成功した。
1404年には「」で知られるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがティムール朝を訪れたが、ティムールの病の為にフランス王シャルル6世とカスティーリャ王エンリケ3世への返書を得ること無く帰国した。改めて東方のモンゴル帝国の大ハーン直轄領()回復をこころざし、元に代わって中国を支配したへの遠征に向かう途上の1405年にティムールは病死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ティムール朝」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Timurid dynasty 」があります。




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