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チャウハーン : ミニ英和和英辞書
チャウハーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チャウハーン ( リダイレクト:チャーハマーナ朝 ) : ウィキペディア日本語版
チャーハマーナ朝[ちゃーはまーなちょう]

チャーハマーナ朝(チャーハマーナちょう、英語:Chahamana dynasty)は、6世紀半ばから12世紀末にかけて、北インドラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝ラージプートの王朝でもある。チャウハーン朝(Chauhan dynasty)とも呼ばれる。首都はアジュメールデリー
== 歴史 ==
6世紀半ば、ラージプートヴァースデーヴァによって、チャーハマーナ朝がラージャスターン地方に創始された。とはいえ、その当時はまだラージャスターンの小国で、8世紀プラティーハーラ朝が成立すると、その支配下にはいった。
この王朝はどうやら単一の王朝ではなく、ラージャスターン地方やグジャラート地方の各地に小勢力が散在していたと考えられており、ラージャスターン中央部に存在したシャーカンバリー(サーンバル)を拠点とした一族がプラティーハーラ朝で封臣(サーマンタ)として頭角をあらわした。チャーハマーナ朝は勢力を拡大し、同様に独立したマールワーパラマーラ朝と同盟を結び、グジャラートチャウルキヤ朝と抗争するようになった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。
やがて、10世紀半ばにデカンラーシュトラクータ朝が北インドに侵攻すると、プラティーハーラ朝の全軍が防衛にあてられたのを見て反乱を起こし、同世紀後半のシンハラージャのとき、ラージャスターンで独立を達成した。また、11世紀初頭にアフガニスタンイスラーム王朝であるガズナ朝が攻めてくると、ラージプートの王朝と連合して対抗したが、1018年に主家であったプラティーハーラ朝は事実上滅亡した。12世紀初頭、アジャヤラージャの治世、チャーハマーナ朝は堅牢な山城のある都市アジュメール(アジャヤメールとも)に拠点を移し、アフガニスタンのガズナ朝とグジャラートのチャウルキヤ朝に備えた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。1119年、ガズナ朝によって拠点の一つナーガウルがガズナ朝によって占拠された。だが、アジャヤラージャの息子アルノーラージャがアジュメールの郊外でガズナ軍を撃退し、領土も同時に回復した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。
そして、12世紀後半以降、ハリヤーナー地方トーマラ朝を従属化に置いたのをはじめ、周辺の勢力をサーマンタとして吸収し、急速に勢力を拡大した。また、その過程でデリーやハーンシーを獲得した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。同世紀末、チャーハマーナ朝は カナウジガーハダヴァーラ朝、グジャラートのチャウルキヤ朝ブンデールカンドチャンデーラ朝を圧倒し、北インドでもっとも強勢を誇っていた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。
また、その領域はデリー北方からパンジャーブ東南端、ラージャスターンに及ぶ広大なものであった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.27〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャーハマーナ朝」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chauhan 」があります。




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