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チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。 チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになる〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、216頁〕。中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される〔。 == 歴史 == === チャガタイ・ウルスの成立 === 13世紀前半にモンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンが次男のチャガタイにアルタイ山脈方面をウルス(所領)として付与したことが、チャガタイ・ハン国の始まりである〔川口「チャガタイ・ウルス」『中央ユーラシアを知る事典』、334-335頁〕。チンギスがチャガタイに与えた4,000戸の遊牧民は、チャガタイ王家に代々継承されていった〔佐口「チャガタイ・ハンとその時代(上)」『東洋学報』29巻1号、87-88頁〕。チャガタイの下に置かれた遊牧民は、モンゴル帝国が征服事業によって獲得した農耕・定住文化圏には入らなかったと考えられている〔佐口「チャガタイ・ハンとその時代(上)」『東洋学報』29巻1号、91頁〕。 チンギスの三男オゴデイの治世、チャガタイの領土はハンガイ山からジャイフーン川の間に広がり、チャガタイは伝統的なモンゴルの法律(ヤサ)の遵守に務めた〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、140頁〕。チャガタイは春と夏の期間はアルマリクとクヤスにオルド(幕営地)を置き、秋と夏にはイリ河畔に滞在した〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、146頁〕。チャガタイの宮廷にはジャルグチ(裁判官)、宰相、書記などの官人が仕えていたことが伝えられている〔佐口「チャガタイ・ハンとその時代(上)」『東洋学報』29巻1号、96-99頁〕。中央アジアのうち、イスラム教徒が定住する地域はダルガチ(行政総督)のマフムード・ヤラワチ、マスウード・ベク親子によって統治され、戦争で荒廃した都市の復興が進展する〔加藤「「モンゴル帝国」と「チャガタイ・ハーン国」」『中央アジア史』、124頁〕。チャガタイの直接の支配は遊牧民にのみ及び、定住民からの徴税はカラコルムの中央政府直属のヤラワチ親子が行っていた〔本田「チャガタイ・ハン国」『アジア歴史事典』6巻、167-168頁〕。 帝国中央で起きた権力闘争にしばしばチャガタイ・ウルスは巻き込まれ、歴代の大ハーンやオゴデイ家のカイドゥの干渉を受ける。チャガタイは存命中に息子モエトゥケンの遺児カラ・フレグをウルスの後継者に指名し、1241年にチャガタイが没した後、カラ・フレグがウルスを相続する〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、229頁〕。オゴデイの跡を継い大ハーンとなったグユクはチャガタイの子イェス・モンケを支持し、カラ・フレグに代えてイェス・モンケをウルスの支配者に任命する〔。1251年にモンゴル帝国の主権がトゥルイ家に移るとチャガタイ家、オゴデイ家の勢力は削減され、中央アジアは大ハーンに即位したトゥルイの長男モンケとジョチの長男バトゥによって分割される〔〔間野『中央アジアの歴史』、149頁〕。モンケはカラ・フレグをウルスの統治者に復帰させ、カラ・フレグがモンケの元に赴く途上で没した後には彼の妃であるオルガナが代わりに政務を執り、モンケの命令に従ってイェス・モンケを処刑した〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、290頁〕。モンケの即位の後、チャガタイ家の王族の多くが失脚し、所領のほとんどが没収される〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、158頁〕。モンケはオルガナにウルスの統治を委ねたが、事実上オルガナはモンケの傀儡でしかなかった〔。 モンケの死後に彼の弟であるクビライとアリクブケが大ハーンの地位を主張して争い、オルガナは1260年にカラコルム西のアルタン河畔で行われたアリクブケを大ハーンに選出するクリルタイに参加し、アリクブケを正統な大ハーンとして認める態度を表した〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、150-152頁〕。1261年にアリクブケはチャガタイ家の傍流出身のアルグをチャガタイ・ウルスに送り込み、物資の輸送と引き換えにウルスの当主の地位を約束した〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、157頁〕。カシュガルで権威を確立したアルグはジョチ家からマー・ワラー・アンナフル地方のオアシス都市を奪回し、アフガニスタン北部に進出する〔間野『中央アジアの歴史』、150頁〕。オルガナから実権を奪ったアルグは約束に反してアリクブケに敵対する姿勢を見せ、チャガタイ家の勢力を削減したモンケ政権とそれを継承するアリクブケ政権、彼らの傀儡であるオルガナに不満を抱く王族・将軍はアルグを支持した〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、157-158頁〕。アリクブケの軍隊の攻撃によってアルマリクは占領され、アルグはサマルカンドに退却するが、捕虜としたチャガタイ家の兵士を殺害したアリクブケの行動に憤慨したアリクブケ側の将校の大部分がクビライに投降した〔ドーソン『モンゴル帝国史』3巻、18-19頁〕。アリクブケに勝利したクビライは1266年に改めてクリルタイを開催するため、アルグ、イランでイルハン朝を建てた弟のフレグ、ジョチ・ウルスのベルケに呼びかけるが、3人が相次いで没したためクリルタイは実施されなかった〔堀川「モンゴル帝国とティムール帝国」『中央ユーラシア史』、190頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャガタイ・ハン国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chagatai Khanate 」があります。 スポンサード リンク
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