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チャタル・ヒュユク
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チャタル・ヒュユク
チャタル・ヒュユク(-・ホユック,-・フユクとも;Çatalhöyük ,''Çatal Höyük'' , ''Çatal Hüyük'')は、アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市〔古代ではイコニウム (Iconium)と呼ばれた。〕の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、遺跡の規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されることもある。チャタルとはトルコ語でforkを意味し、ヒュユク(ホユック)で丘や塚を意味するので「分岐した丘」の意味となる。 チャタル・ヒュユクの遺丘は、チュルサンバ (Çarsamba)・チャイ川の旧河床を挟んで東西にあって、東側は、長径500m、短径300m、高さ20m弱の卵形で西側に比べて規模が大きい。うち新石器時代の文化層は15mに達し、14層の文化層が確認されている。年代的には放射性炭素年代測定で紀元前6850年から同6300年にあたる時期のもので、チャタル・ヒュユクの本体である。西側の遺丘は、チャタル・ヒュユク西遺跡と呼ばれ、径400m、高さ7.5mで規模的には東側に比べて小さく、2期にわたる彩文土器の発達した文化層が確認されており、上層は、青銅器が出現するハラフ期(4300 B.C.頃)並行とされ全体的にやや新しい。 == 研究史 == チャタル・ヒュユクは、1958年に発見され、1961 - 1965年にかけてジェームス・メラート (James Mellaart)によって発掘調査されて、世界的に知られるようになった。メラートは、200ヶ所近い建物を調査し、チャタル・ヒュユクが少なくとも0,I - VIA,VIB - Xの13の層とさらに下層があることを確認した。最下層に至るまではさらに7m掘らなければならないと推定された。以後トルコ政府によって調査が禁止され、遺跡は1993年9月にケンブリッジ大のイアン・ホダー (Ian Hodder)〔ルイス・ビンフォード (Lewis Binford)の提唱した客観的な統計処理と自然科学的年代測定法に加えて文化変化の過程を解明するために文化進化論を考古学に持ち込んだ「ニュー・アーケオロジー」「プロセス考古学」に対して、客観性を保とうとしても現代社会に生きる考古学者は現代の文化的バイアスから逃れられないから、あくまでもその遺跡や文化の脈絡で考古資料の意味や位置づけを解釈しなければならない、という立場の「ポスト・プロセス考古学」の主唱者として知られる。しばしば、「プロセス考古学」と「ポスト・プロセス考古学」の対峙は、文化進化論とボアズ学派の対立に見立てられる。, Ian Hodder 〕によって調査されるまで放置されることになった。ホダーの調査は、他に先駆けたコーリン・レンフリュー (Colin Renfrew)〔ケンブリッジ大学のカリスマ的な考古学者で、西アジアやギリシャの遺跡の調査成果から、「初期国家単位」 (Early State Module)の概念や黒曜石をはじめとする交易の研究から「離心減少モデル」とそれをいくつかのパターンに分けてグラフ化したフォールオフ・モデルを提唱したこと、インド・ヨーロッパ語族は、アナトリアが「原郷」であって、その言語のひろがりは、農業の普及と移住の結果であるという説を唱えたことなどで知られる。cf.Colin Renfrew 〕の研究手法を取り入れた野心的なものであった。考古科学の手法に加えてチャタル・ヒュユクの壁画が表現しているシンボリズムについて心理学者や芸術家たちに解釈をするよう従事させた。チャタル・ヒュユクはメラートによってその複雑性が記録されたが、真の意味での「町」、「都市」、「文明」というよりも巨大な村落として記述された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャタル・ヒュユク」の詳細全文を読む
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