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チャパエフ級巡洋艦()は、ソビエト連邦海軍の軽巡洋艦の艦級である。ソ連海軍における正式名は68号計画艦()。 == 概要 == 1930年代中期以降のソ連海軍は、スペイン内戦中に反政府派海軍によってソ連輸送船が86回も襲撃され、3隻が撃沈、4隻が拿捕された経験、また日独伊防共協定の成立などの世界情勢を背景として、艦艇の増強を進めていた。本級は、この増強計画の一環として開発されたものである。1937年10月1日、ソビエト連邦国防会議は、基準排水量 8,000トン、速力 35ノット、180mm 3連装主砲×3基を備えた軽巡洋艦の建造を承認した。スターリン体制下であったこともあって開発作業は急速に進展し、翌1938年1月10日、国防省海軍局は設計原案を完成させた。 しかしこの設計原案を検討した海軍は、外国艦に比べて兵装が弱体であると指摘した。このことから国防会議は計画の拡大を決定し、6月には、基準排水量 10,000トン、152mm主砲×12門と大型化・重武装化した。具体的な設計は第17中央設計局が担当することとなった。同年12月には海軍省が創設されて海軍軍政の自由度は増したものの、大粛清の最中とあって設計官が次々に逮捕・処刑されたために、設計計画は大幅に遅延した。12月上旬、第17中欧設計局による技術案が関係各所に送付され、海軍省に送られた翌1939年1月、イワン・イサコフ海軍副大臣はこれを承認した。しかし、当時の海軍人民委員(海軍大臣)であったミハイル・フリノフスキーは既に粛清の対象者となっており、計画は延期された。同年4月、新しく海軍人民委員に就任したニコライ・クズネツォフは技術案を一切改良する事なく再提出し、今度は、国防会議は三か月の審議の後にわずかな修正のみでこれを認可した。 68型は当初、船体・機関・兵装のすべてをソビエト国産で固めるものとして完成された。しかし技術案が承認されたのちの1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されたことによってドイツ製の兵器が導入できることになり、主砲をラインメタル社製150mm砲に、高角砲を同社製105mm砲に変更するなどの改正を加えた68i号計画が策定され、2番艦で試験されることになった。しかしこの計画は、砲の変更に留まらず、発電機の大型化など大規模な改装が必要であることが判明し、また独ソ関係が悪化したこともあって、実現しなかった。 当初計画では、1938〜1942年計画中に16隻を建造、5隻を完成させることになっており、これに従って、1939年に5隻が起工され、独ソ戦の勃発直前までに4隻が進水していた。しかし独ソ戦の勃発にともなって、各艦の工事は最大で20〜30%まで進捗したところで中断され、避難の上で終戦まで保管されることになった。また、ニコラエフで建造されていた「オルジョニキーゼ」と「スヴェルドロフ」は、同地を占領したドイツ軍によって解体された。この中断期間中、第17中央設計局は、戦時中の経験に基づいて68型の改良を進め、68-K号計画を策定した。 戦後の1946年6月、イサコフ海軍次官は、若干の変更のうえで68-K号計画を予備承認し、これに基づいて68型巡洋艦の建造が再開された。これによって1950年、5隻が海軍に引き渡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャパエフ級巡洋艦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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