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チャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。 鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえられる。ただ、後述に記す通り兵力差が物をいった戦いとも思われる。 サファヴィー朝軍4万に対して、オスマン帝国軍は6万から20万の大軍を擁し、軍の質も高かった。戦いはオスマン帝国軍の勝利で終わり、大将のイスマーイール1世自身も捕らえられる寸前で退却した。彼の妻たちもセリム1世に捕獲され〔The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg.224〕、そのうちの一人がセリムの側近と婚約させられると〔The imperial harem: women and sovereignty in the Ottoman Empire, By Leslie P. Peirce, pg. 37〕、イスマーイールは政治への興味をなくし、帝国の統治に関与しなくなった〔An Introduction to Shiʻi Islam: The History and Doctrines of Twelver Shi ism, By Moojan Momen, pg. 107〕。 この戦いは、サファヴィー朝軍のクズルバシュの最強神話を打ち崩した〔The Cambridge history of Iran, By William Bayne Fisher, Peter Jackson, Laurence Lockhart, pg. 359〕だけでなく、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えた点〔The Islamic world in ascendancy: from the Arab conquests to the siege of Vienna, By Martin Sicker, pg. 197〕でも、歴史的な重要性をもつ。 一方でこの戦いは、1638年にゾハブ条約(Treaty of Zohab)が締結されるまでの124年間に 及ぶ両帝国間の抗争の始まりに過ぎなかった。 地名Chaldiranに関して、日本語の文献では「チャルドランの戦い」という表記する場合もある〔山川出版社『詳説 世界史研究』(1995年初版本)p.307 など。また、ラテン文字転写も「Calduran」としている。〕。 ==背景== セリム1世はその即位の過程で兄弟達と争ったが、その際にセリムとの抗争で不利な立場にたったアフメド王子はサファヴィーのイスマーイール1世に助けを求め、その息子のムラトもクズルバシュとしてイスマーイールの配下に入った。彼らや、それを後押しするサファヴィー朝軍がオスマン領アナトリアへ侵攻したことから、セリムにはアナトリアからこれらの勢力を一掃する必要があった〔林(2008)p.108〕。 セリムはまず、ハンガリーなどと和平を結んで背後の危険を取り除き、さらにアナトリア各地で調査を行ってイスマーイールの同調者を投獄・処刑した。一説によれば、このとき4万人もの人々が殺されたという〔林(2008) p.109〕。さらに、法学者たちから「イスマーイールとクズルバシュは異端であり、彼らを討つことは聖戦である」という法解釈を引き出し、戦いの正当性を示した〔Finkel, C: "Osman's Dream", page 104. Basic Books, 2006.〕。 セリムが出陣すると、イスマーイールは焦土作戦でこれに対抗した。東アナトリアやコーカサスの地形は荒く、イスマーイールのとった焦土作戦のせいもあり補給は困難だった。オスマン帝国軍の士気は上がらず、イェニチェリはその不満を示すためにセリムのテントに発砲することすらあった。しかしセリムは、サファヴィー朝軍がチャルディランに集結中であることを知ると、すぐその地へと軍を向けた〔Id. at 106,〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャルディラーンの戦い」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Chaldiran 」があります。 スポンサード リンク
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