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チャルトリスキ家(ポーランド語:Czartoryski;リトアニア語:Čartoriskis)は、ポーランドおよびリトアニアの大貴族(マグナート)。ゲディミナス朝の流れをくむ公(Książę)の家系の一つ。18世紀のポーランド・リトアニア共和国において、ファミリアと呼ばれる党派を指導して国政に大きな影響力をもった。 == 概要 == チャルトリスキ家はリトアニア大公国の統治者の血を引いており、大公アルギルダスの息子の一人コンスタンティンが、ヴォウィン地方のチャルトリスクの公となったが、その息子ヴァスィリ・コンスタンティノヴィチが一族の始祖とされている。 その子孫の一人カジミェシュ・チャルトリスキはポーランド・リトアニア共和国の国政に影響力をもつようになり、リトアニア財務長官や副大法官などの顕職を得た。彼の2人の子供たち、ミハウ・フリデリク・チャルトリスキ、アウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキは、ファミリアと呼ばれる党派を形成し、18世紀前半のアウグスト2世およびスタニスワフ・レシュチニスキの治世には宮廷に影響力をもつようになり、ポトツキ家など古参の有力貴族と対立した。一族は18世紀中葉のアウグスト3世の統治期には宮廷の主導権を獲得したが、アウグストの治世末期には下野して反宮廷派に転じた。ミハウとアウグストの兄弟は義弟のスタニスワフ・ポニャトフスキと協力して国政における勢力伸張を続けたが、ポニャトスフスキの息子スタニスワフ・アウグストはポーランド最後の国王となった。 ファミリアは共和国の衰退と無政府状態を憂慮して改革を推進し、自由拒否権を廃止などの大幅な国制改革を目指した。1794年の第3次ポーランド分割において、チャルトリスキ家はロシア帝国にプワヴィの領地を接収されたが、その後の一族の当主であるアダム・カジミェシュ・チャルトリスキとアダム・イェジー・チャルトリスキはポーランド貴族階級の政治的、文化的指導者としての地位を保ち続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャルトリスキ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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