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チャンデーラ朝(チャンデーラちょう、英語:Chandela dynasty)は、9世紀初頭から14世紀初頭にかけて、インド中部のブンデールカンド地方 (現マディヤ・プラデーシュ州)に存在したヒンドゥー王朝。ラージプートの王朝でもある。チャンデッラ朝とも呼ばれる。首都はカーリンジャル、カジュラーホー、マホーバー。 ==歴史== ===成立と独立=== 9世紀初頭、チャンデーラ朝の祖であるナンヌカという人物がブンデールカンドを支配し、当初はプラティーハーラ朝の封臣(サーマンタ)であった。チャンデーラ朝は「月」から生まれたクシャトリヤの家系とする伝承をもつ、ラージプートの王朝と自称していた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。 しばらくプラティーハーラ朝の封臣として、 デカン地方のラーシュトラクータ朝と戦い続けてきたが、チャンデーラ朝台頭の契機となったのは、まさしく916年から917年に行われたラーシュトラクータ王インドラ3世の北伐であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。 この「北伐」によって、プラティーハーラ朝の首都カナウジは陥落し、プラティーハーラ王マヒーパーラ1世はナンヌカの玄孫にあたるハルシャ(在位:900年 - 925年)の助けを得て、ようやく王位を回復するといった状態であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。 940年頃、ヤショーヴァルマン (在位:925年 - 950年)の治世、ラーシュトラクータ朝のクリシュナ3世がカラチュリ朝と同盟して侵攻し、プラティーハーラ朝はこのときカーリンジャルを失った。だが、ヤショーヴァルマンがラーシュトラクータ朝とカラチュリ朝を破り、カーリンジャルを奪還したことによってこの地を獲得し、自立する契機となった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。 また、ヤショーヴァルマンのときに首都カジュラーホーにヴィシュヌ神にささげる宮殿として、ラクシュマナ寺院を建設したことが知られている〔この寺院の建設年代は、945年頃と考えられている。〕。 一方、主家であるプラティーハーラ朝が衰退すると、ブンデールカンドでの独立性を確保し、10世紀後半のダンガ (在位:950頃~1008頃)の治世には事実上独立し、周辺諸国と争いつつ領土の拡張を押し進めた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33〕。10世紀後半のダンガ碑文にプラティーハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。 1002年にダンガ王はヴィシュワナータ寺院を建設し、後にパールシュワナータ寺院を建設している。また、カジュラーホーの西グループにチトラグプタ寺院とデーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャンデーラ朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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