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チャンパーサック王国(チャンパーサックおうこく)は、現在のラオス南部で18世紀から20世紀(1713年 - 1946年)にかけて存在していた歴史上の王朝。現在のチャンパーサック県を中心とした地域を統治していた。 == 概要 == チャンパーサックの地は、古代はチャム族の建てたチャンパの領域であったと推定されるが、その後は長年にわたってラーンサーン王朝の支配下にあった。 独立宣言後、初代国王にスマンカラー王女の長女である(シーサムット、在位:1713年 - 1737年)が即位し、1737年の彼女の死亡後は長男の(在位:1737年 - 1791年)が王位を継承した。この間、王国は平和が堅持され、王国の勢力は徐々に拡大されていった。だが、1779年にシャム(トンブリ王朝)がヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国を侵攻・制圧すると、チャンパーサック王国にも軍勢を派遣してきた為、王国は他の二国と同様にシャムの属領となった。 1782年にシャムでラーマ1世がチャクリー王朝を樹立すると、チャンパーサック王国はシャムから大幅な自治権を認められるようになった。 バーン・シンターに駐屯していた(在位:1791年 - 1811年)が反乱鎮圧の功を認められ、新しい国王に就いた。その後、1813年に(在位:1813年 - 1819年)が王位に就いた。 チャオ・マー・ノーイ王はこの事件がきっかけで逃亡先のバンコクで死亡し、1819年にヴィエンチャン王国国王チャオ・アヌウォン(セーターティラート3世)の息子である(在位:1819年 - 1826年)が新しく国王に就いた。チャオ・ヨーは城壁の修復や税制改革などで敏腕を発揮し、名君と謳われたが、1825年に父親チャオ・アヌウォンが起こしたヴィエンチャン王国の独立戦争に賛同して挙兵したため、シャムによって逮捕され、バンコクの獄中で死亡した。 1828年、シャムはチャオ・アヌウォンの逮捕に功績があった(在位:1826年 - 1841年)を国王に就かせ、これ以降チャンサーパックの王に対し毎年入貢を課すようにした。チャオ・フィ王の死後、同じく逮捕に功績のあった(在位:1841年 - 1851年)が王の座についた。 1893年、ラオスをめぐりタイ王国とフランスとの間でが起こると、フランスはタイを圧倒し、シャム・仏条約に基づいてチャンパーサック王国の宗主権を獲得した。その後、フランスは1899年にチャンパーサック王国をフランス領インドシナ連邦に正式に編入し、1904年以降のチャンパーサックは直轄植民地という位置づけがなされた。それに伴い、チャンパーサック王家は数多くの王としての特権を奪われた上で、フランス領チャンパーサック県の知事として任命されることとなり、前王チャオ・ニュイ(在位:1900年 - 1904年)が(在位:1904年 - 1945年)と称して職務に就いた。 チャンパーサックは、タイ・フランス領インドシナ紛争の結果、1941年にメコン川西岸をタイに割譲された。また、1945年には『明号作戦』を発動させた日本軍が進駐してフランスの行政機構を解体し(仏印処理)、ラオス王国の独立宣言後は日本軍の司政下に置かれた。だが、太平洋戦争(大東亜戦争)終結後は再びフランス領となり、タイに割譲された領地も元に戻った。 1945年のラーチャナダイ王の死後、ラオスをルアンパバーン王国を中心に統一ラオスを結成する流れの中で、王権の潜在的継承者であるブン・ウム(在位:1945年 - 1980年)の処遇が問題となった。そこでフランスとシーサワーンウォン(ルアンパバーン国王)は、ブン・ウムに統一ラオスの終身王国総監の身分を与えることでその傘下に組み込んだ。 チャンパーサック王国は名実共にこの世から消滅したが、チャンパーサック家の現在の当主は、Keo na Champassak(在位:1980年 - 現在)である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャンパーサック王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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