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チャーティスト運動、あるいは、チャーティズム (Chartism) とは、一九世紀グレート・ブリテン王国で起こった選挙法改正と社会の変革を要求する、急進派知識人とおもに下層の労働者たちの運動で、1830年から1850年代末までおよそ30年にわたって展開された巨大な社会運動である。その名は、運動の指導者たちが1838年、成人男子選挙権を軸に起草した『人民憲章』(People's Charter)に由来する。『人民憲章』の内容は以下の六項目からなっていた。チャーティスト指導者の多くは議会への請願運動を重視し、三回にわたって「国民請願」を行っている。なお、一回目は反対235対賛成46、二回目は反対287対賛成49、三回目は賛成票15票という結果であった〔浜林正夫 『イギリス労働運動史』 学習の友社、2009年 95ページ〕。 * 1)成人男子選挙権 * 2)秘密投票 * 3)毎年選ばれる一年任期の議会 * 4)議員に対する財産資格の廃止 * 5)議員への歳費支給 * 6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区 == I、前史 == === オーウェン社会主義とチャーティズム === 1817年、デヴィッド・リカード(David Ricardo)によって『経済学および課税の原理』が発表され、近代経済学は発展を見せた。かれは地代論を展開して、商品価値は労働力と関係があることを指摘した。また、商品を生産している労働者は対価として賃金を受け取るが、商品生産のための資本(土地・工場・機械・道具)を提供している資本家は労せず利潤を受け取る、これが社会の仕組み(資本主義)になっていることを明らかにしている。この経済論は「労働価値説」を説明するものであると同時に搾取の存在を示唆するもので、後の時代の社会主義思想の出発点になる考え方であった。このような考え方を発展させたのが、ロバート・オーウェン(Robert Owen)である。オーウェンは、産業の発達を真に担ったのは労働者であり、その労働者が貧しいのは資本家が搾取するためである、従って、労働者救済のために強固な組合組織と教育活動による社会の改良が必要であると考えていた〔古賀秀男 『チャーティスト運動-大衆運動の先駆』 教育社 1980年 51-53ページ〕。こうした考えは協同組合運動への労働者の結集へとつながっていく。 一方、1831年ヘンリー・ヘザリントン(Henry Hetherington)とウィリアム・ラヴェット(William Lovett)は「労働者階級全国同盟」を結成、機関誌として『プア・マンズ・ガーディアン』を発行した。かれらはフランスの『人権宣言』とトマス・ペインの思想を前文に掲げて綱領を発表した。まず、利潤や地代による収奪を批判して、労働全収権を提唱して労働者が労働生産物の全価値を享受する権利を訴えた。これと同時に雇用主の搾取に抵抗するための団結権やストライキ権の保証を求めていた。そして、その手段を議会の毎年改選・成人男子選挙権の導入・庶民員議員の財産資格の撤廃など議会改革の推進に求めていた。政治改革に限らず、社会経済的な変革を要求し、労働者階級の窮状を打破しようとしたのである〔古賀秀男 同上書 56-58ページ〕。 === 第一次選挙法改正 === 1830年代の「危機」で中産階級と労働者階級による闘争は激しさを増し、選挙法改正が実現していく。これにより、都市選挙区に居住する地方税評価額10ポンド以上の家屋・店舗を占有する戸主(十ポンド戸主選挙権)、地方選挙区に居住する地代50ポンド以上の自由土地保有者に選挙権が与えられた。また、議席再配分が行われ、腐敗選挙区の廃止と南部農村から北部工業地帯への議席の配当がなされた。その結果、都市の中産階級や地方の中農クラスにも選挙権が与えられていく。全体の1/5の議席が南部の過疎地区から北部工業地帯に移されていく。しかし、有権者資格に財産制限が残されたことにより、改革の範囲は不徹底なものとなり、結局、労働者階級は選挙権を持てずに終わった。 == II、チャーティスト運動の出発 == === 『人民憲章』の発表―チャーティズムの誕生 === 一方、ロバート・オーウェンは、様々な職種の職人達を糾合して労働組合の組織化を手伝っていた。1834年には「労働組合大連合」(Grand National Consolidated Trades Union)を発足させた。各地のストライキを支援し続けたが、その多くが資本家によるロックアウトで挫折していく。やがて、「大連合」の足並みは乱れ始め、戦闘的なストライキを試みる組合指導者と階級協調や協同組合主義を模索するオーウェンの立場は隔たっていく。かくして「大連合」は崩壊してオーウェン主義の後退が生じるが、この間隙のなかで選挙法改正運動において次なる運動-チャーティスト運動-が急激に浮上していく。 1836年の恐慌に際し、ヘザリントンとラヴェットをはじめとするロンドンの指導者たちは6月6日に集会を開いた。「ロンドン労働者協会」(London Working Men's Association, 以下LWMAと略記) を設立した〔古賀秀男 同上書 66-68ページ〕。執行部は声明を出し、「イギリスには21歳以上の男子が602万にいるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘した。「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的にはワーキング・プア)の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。1837年5月31日と6月7日にLWMAと急進派議員が協議をし、綱領を起草して議会に提出することを誓約した。ラヴェットが草案を書き、著名な急進主義者であったローバックとフランシス・プレイス(Francis Place)が手を入れたものを採択して1838年5月8日『人民憲章 - 庶民院におけるグレート・ブリテンおよびアイルランドの人々の正しい代表を規定する法案』が発表された〔マックス・ベア著 大島清 訳 『イギリス社会主義史(3)』 岩波書店 昭和47年 45-48ページ〕。憲章の六項目は以下のような内容である〔古賀秀男 同上書 77-79ページ〕。 * 1)成人男子選挙権 * 2)秘密投票 * 3)毎年選ばれる一年任期の議会 * 4)議員に対する財産資格の廃止 * 5)議員への歳費支給 * 6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区 1838年、バーミンガム集会が開催され、各地の代表団がこれに参加した。同集会では『人民憲章』を統一綱領に改革運動を結集する方法が検討された。「国民資金」の名で寄付を募って活動資金を調達すること、そして、「国民請願」と呼ばれる署名運動を推進し、代表団を選出して『人民憲章』を署名とともに議会に提出しようとした。この大会はチャーティスト運動の正式な幕開けとなった〔古賀秀男 同上書 83-84ページ〕。 『人民憲章』とその壮大な理想は、多くの共感者を集めた。 チャーティスト弁士スティーブンス(Joseph Rayner Stephens) は「普通選挙の問題は、日常生活上の問題である。普通選挙とは、国内の労働者が良い上着を着、快適な家を持ち、食卓には良い食事を、健康を維持できる範囲で仕事をし、人生の恩恵を十分に受けるに足る賃金を、仕事の報酬として有する権利をもつことである。普通選挙によって、知識を頭に、原理を心に、気力を良心に、力を右手にもち、労働者が雇用主に堂々と対立できるようになり、労働者が工場にいるときでも、野原に行った時のように自由な気分でいるのを見たい。」と社会の本来あるべき理想を語り、『人民憲章』獲得によってこれらの理想が実現され、労働者の「幸福」が成就されるであろうと人々に約束した〔ベア 同上書 71ページ〕。 かくして、運動は盛り上がりを見せ、各地の運動家たちは各地の集会で選挙を実施し、54名の評議員を選出し、1839年2月4日、代表者は「ジェネラル・コンベンション」(以下コンベンションと略記)なる会合をロンドンで開催した。これは単なる幹部会ではなく、フランス革命の「国民公会」を模して招集されたもので、多くのチャーティスト指導者にとっては「評議会」であった。最も有力な指導者であったファーガス・オコーナー(Feargus Edward O'Connor)は庶民院に代わる唯一の代表機関「人民議会」として位置づけていた。コンベンションは庶民院に革命の脅威を説き、庶民院に譲歩を試みようとした。『人民憲章』の法制化を要求する「国民請願」を敢行すると決議した〔古賀秀男 同上書 100-107ページ〕。しかし、運動内部に派閥が形成されていた。 === 「理性派」と「暴力派」の形成 === 1838年までに形成されたチャーティズムの主力は次の3つのグループと指導者に起源を持つ〔古賀秀男 同上書 87-98ページ〕。 * 1. 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャーティズム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chartism 」があります。 スポンサード リンク
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