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チャーリー・ゲーリンジャー(Charles Leonard Gehringer, 1903年5月11日 - 1993年1月21日)は、1930年代のアメリカ・メジャーリーグで活躍した選手。ポジションは二塁手。ミシガン州生まれ。右投げ左打ち。愛称は"The Mechanical Man"(メカニカル・マン)。これは彼が寡黙であったことと、機械のように毎年コンスタントに成績を残したことに由来する。 == 経歴 == ミシガン大学在学中だった1923年に、ゲーリンジャーの才能は当時のタイガースの強打者ボビー・ヴィーチによって見出された。ヴィーチはゲーリンジャーをネビン・フィールドに招きタイガースの練習に同行させる。当時選手兼任監督だったタイ・カッブもゲーリンジャーに強い印象を受け、タイガースのオーナーだったフランク・ネヴィンにゲーリンジャーとの契約を訴えた。大学を卒業後、1924年にタイガースと契約する。シーズン当初はクラスBのミシガン・オンタリオ・リーグでプレーしていたが、シーズン終盤に一度タイガースに昇格した。1925年はインターナショナルリーグに戻り、1926年からタイガースのレギュラーに定着する。 打撃の才能は、カッブがタイガースを去ったに開花する。この年に打率.317と110得点を記録すると、翌には193安打、打率.320と更に成績を上げた。またこの年は守備でも二塁手最多の507もの補殺を記録した。年には打率を.339まで上げ、安打数215、二塁打数45、三塁打数19はいずれもリーグ最多となった。また盗塁も27を記録し、この年のリーグ盗塁王のタイトルを手にする。以後の.298を除いて、毎年打率3割以上を記録。1932年は「初めはよく打球が飛んだので大きいのを狙うようになったけど、後はさっぱり。同時に打率の方も丸っきり上がらなくなってしまった」と本人が述べている。 打率3割を超えたシーズンは、実に13度に及んだ。守備でも安定した活躍を見せ、1929年からの間で、二塁手の最高守備率を記録したことが実に7度にもなった。特に1933年からは5年続けて『打率.320以上、200安打、100得点』という打撃成績を残し、タイガースのとのリーグ2連覇に貢献している。そしてに、打率.371で初の首位打者を獲得、アメリカンリーグの最優秀選手にも選ばれた。 1934年に全米選抜チームの一員として、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスらと共に日本を訪れて日米野球に出場した際に沢村栄治による「全米軍のクリーンナップ4連続三振」を喫した一人にもなっている。また、翌1935年に日本選抜チームがアメリカ合衆国に遠征した時にも選抜チームの一員として対戦している。 は選手兼任コーチを務め、同年現役を引退。に投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された後、からまでの間はデトロイト・タイガースのゼネラルマネージャーを務めたが、本人曰くGMの仕事は『悪夢』だったという。その後自動車販売などの仕事をしながら、1953年からまで野球殿堂のベテランズ委員会の選考委員を務めた。1983年に、タイガースは彼の背番号『2』を永久欠番とした。1993年、ミシガン州にて死去。89歳。アトランタ・ブレーブスなどで活躍し、通算3000奪三振を達成した名投手ジョン・スモルツは、ゲーリンジャーの甥にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャーリー・ゲーリンジャー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Charlie Gehringer 」があります。 スポンサード リンク
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