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チャーリー高見 : ミニ英和和英辞書
チャーリー高見[たかみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
高見 : [たかみ]
 【名詞】 1. (your) opinion 2. excellent idea

チャーリー高見 ( リダイレクト:柳妻麗三郎 ) : ウィキペディア日本語版
柳妻麗三郎[やなづま れいざぶろう]

柳妻 麗三郎(やなづま れいざぶろう、1898年3月9日 - 1988年あるいは1989年)は、日本の俳優芸人、元奇術師、元照明技師である〔キネマ旬報社, p.600.〕〔映画世界社, p.77.〕〔映画世界社, p.101.〕〔''柳妻麗三郎''、''jlogos.com'', エア、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、''高見嘉一''日本映画データベース、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''allcinema, 2013年6月12日閲覧。〕〔''高見嘉一''東宝 映画データベース、2013年6月12日閲覧。〕〔''柳妻麗三郎''、''高見嘉一''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月12日閲覧。〕〔高見, p.92-95.〕。奇術師時代の芸名は松旭斎 天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、本名・旧芸名は高見 嘉一(たかみ かいち)〔〔〔〔〔〔〔、一時期、チャーリー 高見(チャーリー たかみ)とも名乗った〔ラクゴロク「しゃべるノッポさんは落語流」高見のっぽ 朝日新聞、2006年7月10日付、2013年6月12日閲覧。〕。「マキノのチャップリン」と呼ばれ〔岩本, p.131-133.〕、「昭和の鳥人」こと高木新平に軽業を指導したこと、および「ノッポさん」こと高見映の実父としても知られる〔〔映画世界社, p.77.〕。
== 人物・来歴 ==
1898年(明治31年)3月9日熊本県熊本市二本木町(現在の同県同市西区二本木)に生まれる〔〔〔。
高見嘉太郎の長男として生まれ、長じて、地元の芝居小屋「東雲座」で照明係や設備営繕等の技術職を務めた〔くまもと, p.56.〕。やがて、全国を巡業していた松旭斎天一(1853年 - 1912年)と出逢い、これに師事して奇術師に転向、「松旭斎 天秀」の名をもらう〔〔〔〔〔藤山, p.150-151.〕。満16歳になる1914年(大正3年)、京都の日活関西撮影所で、牧野省三新劇現代劇)を製作する際にこれに出演、以降、天一一座から離れて、同撮影所で照明技師を務めていた〔〔〔。1920年(大正9年)には、同撮影所の演技学校におり、高木新平はここで高見(柳妻)に師事している〔〔〔〔。
満27歳になった1925年(大正14年)6月、牧野省三が東亜キネマを退社、天授ヶ丘に御室撮影所を建設してマキノ・プロダクションを設立した際にこれに参加する〔〔〔。同年9月11日に公開された『奇傑鬼鹿毛 第二篇』(監督金森萬象)で「浮鮫源三郎秀春」役に抜擢されて出演、本名の「高見 嘉一」でクレジットされた〔〔〔〔。同作のプロモーションでは、主演の武井龍三が「鳥人」、平八郎が「巨人」、高見(柳妻)は「豹人」というフレーズがつけられた〔〔。同年10月30日に公開された『駕屋の先生』(監督沼田紅緑)に出演したときから、芸名を「柳妻 麗三郎」と改める〔〔〔〔。1926年(大正15年)5月5日に公開された『活動狂時代』(監督曾根純三)では、「チャップリンに似た男」役を演じ、子役スター松尾文人とともに「大チャプ小チャプ」と宣伝された〔〔〔〔〔File:Katsudo-kyo jidai 1926.jpg , マキノ・プロダクション、2013年6月12日閲覧。〕。同年11月7日から公開が開始した『照る日くもる日』のシリーズでは、「猿の源次」役を演じて代表作のひとつになり、現代劇、時代劇問わず出演した〔〔〔。高見映によれば、父・高見嘉一(柳妻)は「顔がバタくさく」、「美男子の父」の顔が印刷されているトランプが残っているという〔。
1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、柳妻は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男川田弘三小金井勝秋田伸一岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 立命館大学、2013年6月12日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)4月以降、製作が停止する〔御室撮影所 、立命館大学、2013年6月12日閲覧。〕。同年1月10日に公開された『呑気放亭』(監督根岸東一郎)に出演したのを最後に、柳妻は同社を退社する〔〔〔。
のちに「ノッポさん」として知られる高見映(本名・高見嘉明)が生まれたのは、マキノ退社後の1934年(昭和9年)5月10日で、当時は役者時代から引き続き、京都府京都市右京区太秦の俳優たちが多く住む長屋に暮らし、その一角で電気器具店を営業していたという〔〔。その傍ら、「チャーリー 高見」を名乗り、チャーリー・チャップリンの物まねを映画の幕間に演じる、芸人としての活動も行っていたという〔。1938年(昭和13年)ころには、東京府東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島周辺)に移転、同地で工場に勤務して工場長を務め、第二次世界大戦が深まった1944年(昭和19年)には岐阜県羽島郡笠松町に疎開し、1951年(昭和26年)に東京に戻ったという〔。
東京に戻ってしばらくして、高見(柳妻)は芸能界に復帰し、満54歳であった1953年(昭和28年)1月22日に公開された上原謙杉葉子の主演作『夫婦』(監督成瀬巳喜男)に出演した記録が残っている〔〔〔。しかしながら、同作以降の出演歴は不明である〔〔〔。
1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の柳妻の項目によれば、すでに引退はしていたが、満81歳を迎えるその当時は存命で、東京都三鷹市上連雀に住んでいたようである〔。高見映の回想によれば、正確な没年月日は伏せられているが、『ノッポさんがしゃべった日』の執筆されたころ(1991年5月発行)から数年前に亡くなったという〔高見, p.34.〕。また近年、読売新聞のインタビューで、高見映は自身が54歳の時に亡くなったと発言している。したがって没年は1988年1989年、満90歳あるいは91歳没となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「柳妻麗三郎」の詳細全文を読む




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