|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ダース : [だーす] 【名詞】 1. dozen 2. (n) dozen ・ 記 : [き] (n,n-suf) chronicle ・ 号 : [ごう] 1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name ・ 要 : [かなめ] 【名詞】 1. pivot 2. vital point ・ 要素 : [ようそ] 【名詞】 1. element ・ 素 : [もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
論理学者、数学者、哲学者および科学者であったチャールズ・サンダース・パース(1839 - 1914)は、記号論もしくは記号関係の理論についての著作を、1860年代に始めた。その頃には、彼は三つのカテゴリーに関するシステムを考案していた。彼は記号過程(semiosis)を最終的に以下のように定義した。"action, or influence, which is, or involves, a cooperation of ''three'' subjects, such as a sign, its object, and its interpretant, this tri-relative influence not being in any way resolvable into actions between pairs"(Houser 1998, 411)。つまり、記号・対象・解釈内容(解釈項)という3つの主題が、相互に協力し合う活動もしくは作用と定義した。この三項関係の作用は、2項間の活動にはどのようにしても分解できないものである。 このように定式化された三項関係は、「形式的記号論としての論理学」をパースが理解するにあたっても、根本となるものである。彼は「論理学」を哲学的な論理学という意味で使用した。最終的に、彼は(哲学的)論理学すなわち形式的記号論を以下のように分類した。 (1)思弁的文法学、または stechiologyとは、記号学の要素(記号、オブジェクト、解釈内容)にかんして、記号がどのように特定するか、以下の事柄と関連付けながら考える。どのような種類の記号や対象や解釈内容があるか、またどのように記号が結びついて行くか、どのようにある記号が具体化したり、他の記号を取り込んだりしていくか。(2)批判的論理学、または論理学そのものとは、推論の様式に関すること。(3)思弁的修辞学、または methodeutic とは、探求の哲学的理論であり、これは彼によるプラグマティズムを含むものである。彼の思弁的文法学 またはstechiology (つまり(1)の項目)が、この記事の主題である。 パースは、表象・解釈・広義の主張のような事柄を、心理学・言語学・社会科学的見地からよりも、むしろ哲学的論理学の見地から、広範に考えるとともに議論した。彼は哲学を、一般性のレベルに置いた。それは、数学と、自然や心などに関する特殊科学との中間に位置する。〔For Peirce's definitions of philosophy, see for instance "A Syllabus of Certain Topics of Logic", CP 1.183-186, 1903 and "Minute Logic", CP 1.239-241, 1902. See Peirce's definitions of philosophy at CDPT under "Cenoscopy " and "Philosophy ".〕例えば、数学からは諸原則を引き出し、特殊科学へは諸原則を供給するようなものである。一方で、彼の記号学は、問題を解決するために、特定の経験や特定の実験に頼らないのだが、他方で、共通の経験から実例を常に引き出しており、彼の記号論は、数学や演繹的体系には含まれないし、また、純粋の仮説的な対象や事例についての必然的な結論を導き出すようには進まない。哲学的論理学としては、演繹・帰納・仮説的説明のいずれかの結論を引き出すことである。パースの記号論は、その分類、推論の種類の批判的分析、探求の理論などにおける、哲学的論理学なのである。その論理学は、一般に明白な現象としての記号とその三項関係から研究される。 ==記号論の要素== ここに記号の三項関係へのパースの定義がある。この三項関係は論理学に対する彼の定義の中核となっている。
すなわち、記号とは、なにものか(A) であり、なにものか(B)をもたらうようなものである。なにものか(B)とは、解釈内容記号であり、記号によって決定されたり創造されたりして、なにものか (C) と同種の対応したものになったものである。なにものか(C)とは、対象であり、記号自身は(C)と向き合っている。 この定義は、一致と決定内容のパースの定義とともに、すべての記号関係に対して必然的に真であり、すべての言明を引き出すためにも十分である。それでも、一般的記号関係について普遍的定理を単に証明して終わりではなく、記号の理論に対してなすべきことは多くある。また、個別の下位の記号関係のいろいろなものを分類する仕事が残っている。実践的な問題として、具体例の全範囲について慣れ親しむことが、理論と適用の両面で不可欠である。 パースの記号の理論では、ある記号は、他の2つの項目すなわち対象と解釈内容とに対して、よく定義された関係を占めているものである。パースの記号の定義は心理学的な主題から独立であり、彼の記号の理論は言語学単独よりもはるかに多くの基礎部分をカバーしているのだが、記号関係のなじみのある実例や図解の多くは、この主題に対する日常の経験と相俟って、言語学および心理学から由来したものが自然と多くなる。 たとえば、解釈内容の概念にアプローチする一つの方法は、言語心理学的プロセスを思い浮かべることである。この文脈では、解釈内容は、心、または心のように作用する何か(パースは準精神と呼んだ)に対する記号の働きとして理解できる。解釈内容は、解釈の過程で生じた何かであり、記号過程としてまとめられる活動のうちのひとつである。このことは、記号は、対象を示すために、仲介者すなわち解釈内容を介しておこなう、などと言われる。結局のところ、仲介者に対する記号の作用が傑出したものとなる。この作用こそが、パースが解釈内容記号、略して解釈内容と呼称したものである。最も裸の状態での解釈内容は、記号の意味、含意、または派生などである。曖昧な記号か相対的に明瞭な解釈内容へと進んでいく記号過程を区分することには、特別な興味が向けられている。論理学や数学では、対象に対する最も明確になったものや最も簡潔な記号は、''規範的形式''または''正規的形式''などと呼称される。 パースは以下のことを論じた。論理学は、最も広い意味での記号の形式の研究であり、記号は、人工的、言語的、象徴的なものから、類似性やら、反応に対する指標のようなものまで関わっている。記号と表象および推論との関係を含めて、「この世は、記号に満ち満ちている。たとえそれが記号のみで排他的に構成されている訳ではないとしても」〔Peirce, C.S., CP 5.448 footnote, from "The Basis of Pragmaticism" in 1906.〕、という考えをパースは保持していた。それで、すべての思考は時間がかかる、すべての思考は記号の中にあると、パースは主張した。 To say, therefore, that thought cannot happen in an instant, but requires a time, is but another way of saying that every thought must be interpreted in another, or that all thought is in signs. (Peirce, 1868〔"Questions Concerning Certain Faculties Claimed for Man" (''Arisbe'' Eprint ), ''Journal of Speculative Philosophy'' vol. 2 (1868), pp. 103-114. Reprinted (CP 5.213-263, the quote is from para. 253).〕) Thought is not necessarily connected with a brain. It appears in the work of bees, of crystals, and throughout the purely physical world; and one can no more deny that it is really there, than that the colors, the shapes, etc., of objects are really there. Consistently adhere to that unwarrantable denial, and you will be driven to some form of idealistic nominalism akin to Fichte's. Not only is thought in the organic world, but it develops there. But as there cannot be a General without Instances embodying it, so there cannot be thought without Signs. We must here give "Sign" a very wide sense, no doubt, but not too wide a sense to come within our definition. Admitting that connected Signs must have a Quasi-mind, it may further be declared that there can be no isolated sign. Moreover, signs require at least two Quasi-minds; a Quasi-utterer and a Quasi-interpreter; and although these two are at one (i.e., are one mind) in the sign itself, they must nevertheless be distinct. In the Sign they are, so to say, welded. Accordingly, it is not merely a fact of human Psychology, but a necessity of Logic, that every logical evolution of thought should be dialogic. (Peirce, 1906 〔"Prolegomena To an Apology For Pragmaticism", pp. 492 ?546, ''The Monist'', vol. XVI, no. 4 (mislabeled "VI"), Oct. 1906, see p. 523 . Reprinted CP 4.530?572; see para. 551 Eprint .〕) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・サンダース・パースによる記号の要素とクラス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|