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チャールズ・マリーズ : ミニ英和和英辞書
チャールズ・マリーズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チャールズ・マリーズ : ウィキペディア日本語版
チャールズ・マリーズ[ちょうおん]

チャールズ・マリーズ(Charles Maries、1851年12月18日 - 1902年10月11日)はイギリスの植物学者、ヴィーチ商会プラントハンターとして働き、1877年と1879年に、日本中国台湾で植物収集を行った。500種の新種の植物をイギリスにもたらした。
==生涯==
ウォリックシャーのHampton Lucyに靴屋の5人兄弟の末の息子に生まれた。グラマースクールで、後に、王立園芸協会の植物学の教授となる牧師のヘンスロー(G. Henslow)から植物学を学んだ。長兄と次兄は父の仕事を継ぎ、4男のリチャードも植物学を学び、園芸を仕事とし、父親が死んだ後、チャールズも兄の園芸場で働いた。7年間兄のもとで働いた後、1876年に当時、イギリスで最大の園芸商のロンドンチェルシーのヴィーチ商会に雇われた。すぐに主任に抜擢され、極東の植物の採集に選ばれた。1877年2月、上海に向けて出発し、香港寧波に寄航した後、長崎に4月20日に到着した。長崎の庭園を訪問した後、下関から瀬戸内海を通って大阪京都を経て横浜日光さらに青森を訪れた。高地の樹木に注目し、採種を行った。青森から北海道に渡り、函館に6月20日に至り、札幌から千歳江別を通って、浦河様似を訪れた。幌泉襟裳岬を訪れ、10月までの3ヶ月あまりを北海道で山地の植物、昆虫の採取をして過ごした。
最初に採取した種子を載せてイギリスに向けて出航した船は座礁し、種子は失われたので、再び採取を行いイギリスに種子を送り届けた。北海道から新潟へ船で移動し、その後陸路で12月に横浜に戻った。12月25日に横浜から離日した。香港、台湾、中国本土で植物採取を続けた。1878年の夏は日本で過ごし、中国での植物採取を続け、1880年2月にイギリスに戻った。植物標本は王立植物園(キューガーデン)に送られ、昆虫のコレクションは大英博物館に収められた。
1882年にフッカーの推薦でDarbhangaのマハラジャの庭園の監督官の仕事を得た。その後、Gwaliorのマハラジャの庭園の仕事などを1902年まで務めた。インドではマンゴーの専門家となり『インドのマンゴー栽培』(Cultivated Mangoes of India)を出版するが、出版されることはなかった。原稿はキューガーデンに保存されている。
1877年にロンドン・リンネ協会の会員に選ばれ、1897年に王立園芸協会ヴィクトリア名誉メダルの受賞者の1人となった。出生地のHampton Lucyに2005年に"Charles Maries Trail"が設けられた。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャールズ・マリーズ」の詳細全文を読む




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