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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
チャールズ・ロバート・マチューリン(英語: Charles Robert Maturin, C.R.Maturin, 1782年9月25日 - 1824年10月30日)は、プロテスタントの牧師(アイルランド教会で聖職を受任)であり、ゴシック戯曲とゴシック小説の作家〔Chris Morgan, "Maturin, Charles R(obert)." in ''St. James Guide to Horror, Gothic, and Ghost Writers'', ed. David Pringle. Detroit and New York: St. James Press, 1998. (396-97) ISBN 1558622063〕。代表作は『放浪者メルモス』である。 ==生涯と作品== C.R.マチューリンは、アイルランドに亡命したユグノーたちの子孫である。その一人ガブリエル・ジャック・マチューリンは、1745年にジョナサン・スウィフトの後を継いでダブリンの聖パトリック大聖堂の首席司祭となった。C.R.マチューリンはダブリンに生まれトリニティ・カレッジに通った。1803年にゴールウェイ地方ラウレアの牧師補として聖職を受任して間もなく、聖ペテル教会の牧師としてダブリンに戻った。ヨーク通りで郵便局員の父と母フェデリア・ワトソンと共に暮らし、1804年10月7日に人気歌手ヘンリエッタ・キングスバリーと結婚した。 マチューリンの初期の3作品はゴシック小説で、デニス・ジャスパー・マーフィーの筆名で出版したが、評価も利益も得られなかった。しかしウォルター・スコット卿の目に留まり、作品をバイロン卿に推薦してくれた。彼らの助力によってマチュリーンの戯曲『バートラム』(Bertram) は1816年にドルリーレーン(ロンドン中心部の17世紀以来の歴史を持つ王立劇場)で22日間上演されて、エドマンド・キーンが主演のバートラム役であった〔Encyclopaedia Britannica, vol. 17, Cambridge 1911, p. 903〕。しかし金銭的成功はマチューリンの手を逃れて行った。時を同じくして父が失業し親戚が破産したため、駆け出しの作家である彼が二人を援助した。さらに悪いことに、サミュエル・テイラー・コールリッジが、退屈で不快であると公然とこの戯曲を批判した。また『人々の精神が堕落していることの憂うべき証明』"〔Maturin, Melmoth the Wanderer (1820) from the course ''The Gothic Subject'' by David S. Miall, Department of English, University of Alberta, Autumn 2000〕とも言い、無神論として糾弾せんばかりであった。 アイルランド教会はこういった文書や初期の批評を入手して『バートラム』の作者を見抜き(マチュリーンは戯曲の収益を受け取るためペンネームを捨てていた)、その後マチューリンが聖職者として昇進するのを妨害した。妻と4人の子どもを執筆活動で養わねばならなくなり(牧師の給料は年80-90ポンドであるのに対し、『バートラム』では1000ポンド稼いでいた)、一連の戯曲の上演に失敗した後は、劇作家と小説家を掛け持ちするようになった。小説は『放浪者メルモス』に加え、アイルランドの題材にまつわる数作品や"The Albigenses"というオオカミ男を扱った歴史小説などがある〔Chris Morgan, "Maturin, Charles R(obert)." in ''St. James Guide to Horror, Gothic, and Ghost Writers'', ed. David Pringle. Detroit and New York: St. James Press, 1998. (396-97) ISBN 1558622063〕。多種の詩についてもマチューリンの作とされているが根拠に乏しく、他の人物の作品と思われる。受賞した"Lines on the Battle of Warterloo"は1816年に「学士ジョン・シー」の名で刊行された。"The Universe"はタイトルページにマチューリンの名を載せて1821年に出版されたが、現在はほぼすべてジェームズ・ウィルスの作と考えられている〔"The Cambridge Bibliography of English Literature: 1800-1900", 1999, p.957 〕。 マチューリンの説話が多大な影響力を持っていたことは、彼の出版した二つの説話集に垣間見られる。シャーロット姫逝去の際には、彼はこう高らかに述べた。「この世は死に満ちている。生者の歩みが地を踏む時は、必ず死者の亡骸を踏みつける。我々は先に生きた者たちの上を歩いているのだ。この世界はひとつの広大な墓場である」当時の記録には、聖ペテル教会にあんなに人が押しかけることは滅多になかったと書かれている。『天候が厳しくない限り、信者たちは教会に詰めかけて、うっとりとこの牧師界の王子様の話に聞き惚れていた』マチューリンは1824年10月30日にダブリンで死去した。彼の死亡記事にはこうあった。『彼の名誉を遺す証がこれよりにあろうか。説話だけで十分であろう』〔Maturin family history online 〕 DUBLIN UNIVERSITY MAGAZINEは後に、マチューリンの性格についてこうまとめている。『狂人と言えるほどの変わり者で、相容れないものが合わさった人物だった。小説を飽くことなく読み耽っているかと思えば気品のある牧師であり、はたまたひっきりなしに踊っていて身だしなみや身振りが気取っていた。〔"A Compendium of Irish Biography", Dublin 1878, the article on Charles Robert Maturin 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・ロバート・マチューリン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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