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刁遵墓誌(ちょうじゅんぼし)とは、中国の南北朝時代、北朝の北魏で熙平2年(517年)に彫られた貴族の墓誌。六朝時代の北朝独特の楷書「六朝楷書」の書蹟として知られる。 清代に出土し様々な研究者の手を渡り歩いたが、現在は山東省済南市の山東省博物館に所蔵されている。 ==被葬者について== 被葬者である刁遵は正史に記録がないが、碑文によれば字を奉国(ほうこく)といい、没年から逆算すると太延5(439)年に渤海の饒安(現在の河北省・山東省一帯)で生まれた。刁氏は元東晋の高級貴族であったが、東晋が滅亡し宋が立った際に遵の祖父・暢が武帝に殺されたため北に逃れ、北魏に仕えて再び高官となったという。遵の父・雍は『魏書』にも名が見え、北魏においても相当な名族となっていたことがうかがえる。 冒頭部に欠落が多いため遵の性格については不明な部分が多いが、仁に篤い人物であったという。太和年間(477年 - 479年)に魏郡(現在の河北省)の太守に任ぜられて徳治を行い、正始年間(504年 - 508年)には高陽王の諮議参軍事となり、ほどなくして大司農少卿となった。その任期途中で使持節都督洛州諸軍事・龍驤将軍・洛州刺史となり、熙平元年(516年)7月26日に死去。享年76であった。これに伴い使持節都督兗州諸軍事(「兗」はなべぶたの下に「兌」)・平東将軍・兗州刺史を追贈された後、翌年10月9日に生まれ故郷である饒安近郊に葬られた。この墓誌はその際に棺と共に埋葬されたものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョウ遵墓誌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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