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鄭 珉哲(チョン・ミンチョル、1972年3月28日 - )は、大韓民国の大田広域市出身の元プロ野球選手(投手)。野球指導者・解説者。 ==来歴・人物== 1991年、大田高等学校からピングレ・イーグルスに入団。高卒でありながら1年目から先発とリリーフを行き来して、14勝4敗7セーブ、防御率2.48の成績で最高勝率投手タイトルを獲得。2年目のジンクスもなく、途中で防衛兵として兵役を全うしながらも先発ローテーションを守った。入団から日本移籍まで8年の間、大きな故障もなく、1年も欠かさず二桁勝利を挙げた。その間、7シーズンが13勝以上、防御率3.21以下の抜群の安定性を誇り、「いつも計算できる投手」として韓国トップクラス投手の座を固める。 1999年は自己最多の18勝をあげ、チームの初優勝に貢献。主軸投手としての功績を球団に認められ、個人通算100勝を手土産に2000年にレンタル移籍で読売ジャイアンツに入団。しかし外国人枠に阻まれたことも影響して一軍出場は限られ、当時の巨人ではビル・ガリクソン以来の外国人投手初登板初勝利を挙げたものの、その後は期待された成績を残すことは出来なかった。NHKのハングル講座に出演したことがある。 2002年、古巣のハンファに復帰した。しかし、復帰後は巨人時代の調整不足の影響でまるで巨人移籍前とは別人のような無力なピッチングで成績が落ち、2004年は韓国プロ野球でデビュー以来、初めてシーズン0勝に終わった。その後は変化球を多様する投球術を磨き、2007年には韓国通算150勝を達成。2008年は6勝どまりで、前年より投球内容は悪化して、チームもプレーオフ進出が3年連続で途切れた。 2009年は力の衰えもあって開幕から1勝もできず6連敗で、チームも最下位に低迷していたこともあり、再建のためシーズン途中の7月にプレイングコーチに就任した。その後1軍登板の機会はなく、9月に2009年限りでの現役引退を表明し、最後につけていた背番号23はハンファの永久欠番となることも決まった。9月12日、ハンファの本拠地・大田でのヒーローズ戦で引退セレモニーが行われ、背番号23をたたえるモニュメントも球場内に設置された。2010年からハンファの投手コーチに就任した。2014年限りでハンファを退団し、2015年より韓国のスポーツ専門チャンネルで野球解説者として活動する。 通算勝利数161勝(2009年シーズン終了時)は韓国史上2位で、韓国プロ野球では二人しかいない個人通算150勝投手の一人である。(もう一人は元同僚の宋津宇) 韓国内でも人気のあったSPEEDの大ファンだった。誰のファンかは不明だが、報知新聞の「ジャイアンツ日記」で「2番目か3番目がいいですね」と話していたため、今井絵理子かhiroの可能性が高い。来日直後にCDを買いに走り、よく聞いていたがその直後に解散。本人は大きなショックを受けた。その後初登板時に翌日のスポーツ紙はこぞって「SPEEDのファン」と書いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鄭ミン哲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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