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チンギス・ハーン : ミニ英和和英辞書
チンギス・ハーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

チンギス・ハーン ( リダイレクト:チンギス・カン ) : ウィキペディア日本語版
チンギス・カン[ちょうおん]

チンギス・カンモンゴル語20pxキリル文字:、ラテン文字化:''Činggis Qan'' または ''Činggis Qa'an''、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴル遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジアイラン東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。
死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている〔一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。
1155年説については、主にイルハン朝ガザンオルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。
一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、の撰(王国維の研究により著者は趙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。
このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。〕。
== 生涯 ==

=== チンギス・カンの先祖と生い立ち ===
チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり、11世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった。
チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「白い鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。
ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリヤンカイ、ジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。やがて、ボドンチャルから7代目とされるカブルがモンゴル諸部族で最初のカン(ハン、ハーン)の称号を名乗り、カブル・カンの子孫はキヤト氏を称するモンゴル部の有力家系となった。チンギス・カンの父イェスゲイ・バアトルは、カブル・カンの孫で第3代カンとなったクトラ・カンの甥である。
チンギス・カンはそのイェスゲイの長男として生まれ、テムジン(、Temüǰin、 鉄木仁もしくは鉄木真)という名を与えられた。『元朝秘史』、『集史』などが一致して伝えていることには、チンギスが誕生した直前にイェスゲイはタタル部族の首長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカと戦い、このテムジン・ウゲを捕縛して連行して来たという。『元朝秘史』などによると、この時ホエルンが産気づきオノン川のデリウン岳でイェスゲイの軍が下馬した時に出産したといい〔デリウン岳 Deli'ün Boltaq (迭里温孛合)での出産についても、主な資料では共通して述べている。『集史』では دلون بولداق Dilūn Būldāq 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号、1967年、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『内陸アジア史論集』第2、内陸アジア史学会編 国書刊行会 東京、1979年、p.71 - 86. 再録);村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社、1970年、p.79 - 80.〕、このためイェスゲイは、その戦勝を祝して出生したばかりの初の長男の名を「テムジン」と名付けたと伝えられる〔この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショカ王物語』 (''Ašokāvadāna'') の中の、カウシャンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に付け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。〕。テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったため、同時代の歴史書でもそれぞれ1155年1162年1167年と諸説が述べられており、はっきりとは分からない〔〔ちなみに、この「テムジン」 (temüǰin) とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」 (temür-či) 、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13 - 14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー1247年のグユクの即位に列席したキリキア小アルメニア王国ハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。〕。
父イェスゲイは、カブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男という出自でキヤト氏の中では傍系に属したが、バアトル(勇者)の称号を持つ有力者で、モンゴル高原中央部の有力部族連合ケレイトの王トグリル(またはトオリル。のちのオン・カン)とも同盟関係を結び、ケレイト王国の内紛で王位を追われたこのトグリルの復位に協力したことで、一代で急速に勢力を拡大した。また、『元朝秘史』によるとテムジンが9歳の時に、父イェスゲイに伴われて母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた逸話が載せられている。この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、イェスゲイとデイ・セチェンはテムジンとボルテ両人に許嫁の関係を結んだと伝えられる。イェスゲイはその後のテムジンの養育をデイ・セチェン一家に頼んで自家に戻ったという。しかし、程なくしてイェスゲイが急死し、その勢力は一挙に瓦解してしまう。
テムジンは、父の死の知らせを受けて直ちに家族のもとに戻された。幼い子供たちを抱えてイェスゲイ家の管理権を握った母ホエルンは、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で子供たちをよく育てた。テムジンが成人してくると、モンゴルの第2代アンバガイ・カンの後裔でキヤト氏のライバルだったタイチウト氏の人々は、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、テムジンを捕らえて自分たちの幕営に抑留した。テムジンはこの絶体絶命の危機を、タイチウトに隷属民として仕えていた牧民ソルカン・シラの助けによりようやく脱したという。成人すると、今度はモンゴル部の宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキ率いる軍勢に幕営を襲われ、夫人ボルテをメルキトに略奪されるなど辛酸を舐めた。このとき、ボルテを奪還するのに尽力してくれたのが、父の同盟者でもあったケレイトのトグリル・カンや、モンゴル部内のテムジンの盟友(アンダ)であるジャジラト氏のジャムカといった同盟者たちだった(、1180年頃)。
『元朝秘史』は、このような境遇の中、ある事件により偶然テムジンと友人になったアルラト氏のボオルチュ、先祖代々テムジンの家に仕えていたウリヤンカイ氏のジェルメ、ソルカン・シラの息子チラウンチンベ兄弟らは後のモンゴル帝国の有力な将軍となる遊牧騎士たちが、テムジンの僚友(ノコル)として彼のもとに仕えるようになった事情を語っている。後にジェルメはジェベクビライスブタイの3人と共に「四狗」と呼ばれる重臣となる。「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。ボオルチュやチウランも後にボロクルムカリと共に「四駿」と呼ばれる重臣となる。「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チンギス・カン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Genghis Khan 」があります。




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