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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
チーム・シンスケ(TEAM SHINSUKE)は、島田紳助が中心となり、ベテランレーシングライダー千石清一を鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)で走らせるために1985年に結成された、オートバイのレーシングチームである。1986年から1995年までの10年間、鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)を中心に参戦し、活動を止めていたが、2011年に一度限りの復活を行った。 == 概要 == === 最初の10年間 === 1985年、以前より親交のあったベテランレーシングライダー・千石清一を「自分たちの力で走らせてあげたい」との思いと、千石の「(その日鈴鹿で)絶対泣ける」の一言を信じ、鈴鹿8耐への参戦を目的として結成された。メンバーは紳助の高校生時代の同級生である「土建屋よしゆき」や、消防士である「ファイヤーやっこ」、紳助とオーストラリアツーリングを共にした「ナオ」など、紳助とプライベートで親交がある者が中心となった。なお、チーム設立時のメンバーにはライダーの千石を除き、紳助を含めてレーシングチームの運営などに関与した経験のある者は一人もいなかった。 初参戦となった1986年は予選で好位置につけながらも途中リタイヤ、1987年は予選落ちを喫するなど苦戦が続いたが、1988年に初の完走を果たしてからは安定して成績を残し、純粋なプライベートチームの中でも上位の成績を残すまでになっていった。1980年代後半はバブル景気の真っ只中であり、鈴鹿8耐にも多くの芸能人やスポーツ選手が「お飾り監督」として参戦していたが、代表としてチーム名に「シンスケ」の名はあるものの、紳助自身は芸能人としてではなく、あくまで一個人として真摯に鈴鹿8耐に参加していた。紳助自らが企画書を手にスポンサー集めに奔走し、サーキットでも真剣にレースに取組む姿は、参戦を重ねるごとに他のエントラントからも評価されていった。 チーム設立当初からチームのナンバー1ライダーとして参加していた千石は、1991年の鈴鹿8耐を最後にライダーを引退、チーム・シンスケの監督となる(競技ライダーとしては引退したが、千石はその後もマーシャルライダーとして2003年まで鈴鹿8耐に参加していた)。鈴鹿8耐と並行して参戦していた全日本ロードレース選手権では主に千石が監督を務めたが、鈴鹿8耐はどんなに多忙でもスケジュールの合間を縫って紳助が監督を務めた。 活動期間に関して、千石はずっと続けていたいというスタンスであったが、紳助は1991年頃よりチームを終了させることを考え始めた。しかし、直ぐにやめるのを良しとせずにチーム設立10年目を節目とし活動を終了することとした。その最終年となった1995年は、サテライトチーム扱いとはいえHRCからワークス・マシンを貸与されたが、レース決勝はリタイヤ。チェッカーフラッグが振られた後、このレースを最後に引退する田村圭二のライディングでラストランを行い、10年間の活動に終止符をうった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チーム・シンスケ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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