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郗 鑒(ち かん、269年 - 339年)は、中国魏晋南北朝時代(西晋・東晋)の軍人・政治家。字は道徽。高平郡金郷(現山東省)の人。郗愔、郗曇の父、郗超の祖父。後漢末期の御史大夫郗慮の玄孫にあたる。 最初は司馬倫に仕えていたが、病により職を退いていたため司馬倫の謀反(八王の乱)には加担せず処罰を免れた。その後の西晋の混乱を生き延び故郷に帰還した後、南方に渡り東晋の皇帝元帝に仕え、建国間もない東晋王朝の軍事面を支え続け、兗州刺史、都督揚州江西諸軍事に任じられ長江下流域を本拠とした。郗鑒の率いた軍団は「北府軍団」として、長江中流域に駐屯した陶侃や庾亮の「西府軍団」と共に以後の東晋の軍事の主力となる。 後趙の石勒の侵攻を退ける一方で、元帝の後を継いだ明帝・成帝を支えて王敦や蘇峻の反乱鎮圧にも尽力、功績により車騎大将軍に昇進、都督徐州・兗州・青州諸軍事、兗州・徐州刺史も兼ねて北府軍団を首都建康近郊の広陵(現在の揚州市)に移し、司空に昇進した。329年、広陵から京口に鎮座、北府軍団の拠点を京口に移した。 339年、70歳で死去。次男の郗曇が北府軍団を束ね、361年に亡くなった後は長男の郗愔が引き継いだが、369年に孫で郗愔の息子郗超の画策で北府軍団の指揮権を桓温に奪われた。桓温は西府軍団も掌握しており、北府軍団も合わせて最大の軍事力を保有、東晋の有力者にのし上がっていった。 王敦の従弟で有力者王導と縁戚関係を結ぶため、彼の従甥の1人を娘婿に選ぶことにした。選ばれたのが後の書聖王羲之である。 == 伝記資料 == *『晋書』巻67列伝第37 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チ鑒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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