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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ツァハリアス・ヴァグナー(Zacharias Wagenaer、''Wagener''、''Wagenaar''また''Wagner''とも、1614年5月10日 ドレスデン - 1668年10月12日 アムステルダム)は、オランダ東インド会社の社員で、画家、判事。第25代および第27代のオランダ商館長を務めた。ケープ植民地総督を務めた唯一のドイツ人でもある。35年間に、4つの大陸を旅した。 ==経歴== ツァハリアスの父はザクセン人で、判事および画家であった。1663年にドレスデンからハンブルクを経由してアムステルダムに移り、そこでウィレム・ブルー(Willem Blaeu)の下で働いた。それから1年を経ずオランダ西インド会社の兵士となり、1634年にはニュー・ホランド(オランダ領ブラジル)に渡った。3年後、新任の植民地総督であるナッサウ=ジーゲン侯ヨハン・マウリッツに記録係として雇用された。レシフェでは、魚、鳥、植物、果物、虫、現地人等の109枚の水彩画を含む日記を残し、『Thier-Buch』という表題で出版されている。シロシュモクザメ、タチウオ、カワハギ、ハタ、フジツボの写生も行なっている。1641年にはオランダ領ブラジルを離れドレスデンに戻った。その4か月後にはオランダに行き、オランダ東インド会社に職を得た。 1642年、見習士官としてインドに向かって出帆。翌年、植民地総督アントニオ・ヴァン・ディーメンおよびコーネリス・ヴァン・デア・リン(Cornelis van der Lijn)の助手となった。1648年にはマーチャント補佐、1651年にはマーチャントに昇進した。この間、3度にわたってバタヴィア法廷の一員となっている。1653年には広東に出向き、貿易再開交渉を行ったが、明帝国崩壊後の内戦のために、失敗に終わった。 1657年には出島のオランダ商館長に昇進した。恒例となっている将軍謁見のために江戸に赴いたが、そこで1657年3月2日(明暦3年1月18日)に発生した明暦の大火に遭遇した(江戸東京博物館には彼によるスケッチが所蔵されている)。この経験から、ヴァグナーは当時発明されたばかりの消防ポンプとホースを将軍に献上することを思いつき、次の商館長ヨアン・ボウヘリヨンによって実現され、大いに喜ばれた〔クライナー、P113〕。 1659年に2度目の商館長を務めていた際に200皿からなる食事を注文しているが、食事を外注した商館長は彼が最初であった〔Schoeman, p. 164.〕。当時は中国の戦乱で景徳鎮での陶磁器生産が打撃を受け、ヨーロッパへの輸出が困難になっていた。また、有田に磁器窯はあったが製品の質は高くなかった。ヴァグナーは中国から見本の陶磁器を輸入し、それを参考にしてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼した〔http://www.aisf.or.jp/~jaanus/deta/i/imariyaki.htm〕〔Volker, p. 126-127, 132-137〕。コバルトブルーの素地の上に黄金のデザインを施した伊万里焼はヴァグナーの考案によるもので、現在でも香蘭社に受け継がれている〔クライナー、p112〕。 1660年、ヴァグナーはマカッサルのスルタンとの平和交渉に関わった。港には2000人のポルトガル人の貿易商人がおり、何年にもわたってモルッカでのオランダの香辛料貿易に脅威を与えていた。翌年には、バタヴィアの公共事業の責任者となった。1662年、家族、5人の奴隷、2頭の馬を引き連れて喜望峰に赴いた〔Schoeman, p. 165.〕。5月6日に、ヤン・ファン・リーベックの後を受けてケープ植民地の総督となった。1663年12月に、バタヴィアに対し、ペルシャの陶器を送るように依頼している〔Schoeman, p. 167.〕。彼はまたコイコイ人と家畜の供給に関して交渉を行なっている〔Google books The History of South Africa 〕。ヴァグナーは部族間の抗争から距離を置き、厳正中立を保つという彼のポリシーをつらぬいた。5年の研究の後、ドイツ人のゲオルク・フリードリヒ・ヴリーデ(Georg Friedrich Wreede)はオランダ語とコイコイ語の簡易辞書を作成した〔Molsbergen, pp. 215-224〕。ヴァグナーは彼をモーリシャスに任じた。 ヴァグナーは1665年8月に建設が開始されキャッスル・オブ・グッドホープの基礎を作った5人のうちの1人である〔Spohr, p. 4-5.〕。彼は貯水池の建設を行い、船、病院、学校、教会に新鮮な水を供給できるようにした。1666年に妻のアンナが死亡。1666年9月27日に総督を辞任し、養女を伴ってバタヴィアに戻った。このときベンガルから連れてきていた奴隷を売却している。彼はまた、東インド会社との交易を拒否していたマタラム王国の王に、献上品を持って出向いている。彼のジャワ語またはマレー語の能力は十分でなかったため、交渉は失敗に終わった。翌年、副提督としてアムステルダムに戻ったが、その時は健康を害していた。1668年10月16日に死亡、アムステルダムのオールド・チャーチ(Oude Kerk)に埋葬された。 ドイツ人の研究家が彼の日記〔The original manuscript has been published by Michel (1983) ''Zacharias Wagner and Japan (I)''.〕を英語に翻訳し、1704年と1732年に出版している〔Churchill, p. 496-499〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ツァハリアス・ヴァグナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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