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ツィスライタニエン : ミニ英和和英辞書
ツィスライタニエン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ツィスライタニエン : ウィキペディア日本語版
ツィスライタニエン

ツィスライタニエンCisleithanien)とは、1867年以後のオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)において、オーストリア帝冠領(すなわち、ハンガリー王冠領以外の部分。二重帝国の北部および西部地域)を指すときに、政治家や官僚により非公式に使われていた呼称。直訳すると「ライタ川よりこちら側の地域」となる。「オーストリア帝国」との呼称は、アウスグライヒ以前の(ハンガリーを含む)帝国と紛らわしいため、ほとんど用いられなかった。ツィスライタニエンの公式名称は、「帝国議会において代表される諸王国及び諸邦(''Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder'')」であったが、1915年に「オーストリア諸邦(''österreichische Länder'')」に変更された。
== 概要 ==
ツィスライタニエンはその公式名称が指し示すように議会制国家であり、ウィーン帝国議会Reichsrat)を共通の立法府としていた。帝国議会では1867年より分離したハンガリー王冠領から代表が送られることは無くなった。
ツィスライタニエンという名称は概念的には、オーストリア側からハンガリー側を眺めた形になっており、ニーダーエスターライヒとハンガリーの自然国境の一部を形成し、人がドナウ川の南側を通ってウィーンからブダペストに向かう際に横切ることの多いライタ川に由来している。この名称は全く地理的正確さを欠いたものであり、北部・北東部(ボヘミアモラヴィアオーストリア領シュレージエンガリツィアブコヴィナ)および南部(キュステンラントカルニオラダルマチア)などツィスライタニエンの大部分はライタ川と接しておらず、従ってこの川の「こちら側」にも「向こう側」にも当てはまらなかった。
ハンガリー王国クロアチア=スラヴォニア王国Königreich Kroatien und Slawonien)で構成されたハンガリー王冠領/「聖イシュトヴァーンの王冠諸邦(''Ländern der ungarischen Stephanskrone'')」は、ツィスライタニエンに対応して非公式にトランスライタニエン(''Transleithanien'')と呼ばれた。オーストリア=ハンガリーが1878年に占領し、1908年に正式に併合したボスニア=ヘルツェゴヴィナはツィスライタニエンにもトランスライタニエンにも所属せず、両国の共同領有地域(Kondominium)とされた。
ツィスライタニエンの政府当局は、1867年までのオーストリア帝国期の政府当局と同様、自国の国家体制を「帝国にして王国(kaiserlich-königlich/k.k.)」と呼び続けた。この「''k.k.''」の呼び名は、オーストリア帝冠領諸邦に由来する様々な君主号の中で最高位にある2つの称号、オーストリア皇帝ルドルフの帝冠/Rudolfskrone)とボヘミア王聖ヴァーツラフの王冠/Wenzelskrone)を示していた。1867年のハンガリー王冠領の離脱までは、2番目の「k」が指していたのはハンガリー王聖イシュトヴァーンの王冠)であった。1889年になって、二重帝国全体を指し示すための語として、ツィスライタニエンとトランスライタニエンを併称した「帝国ならびに王国(kaiserlich und königlich/k.u.k.)」という呼び名が作られた。
オーストリア」の名称は二重帝国におけるツィスライタニエンのより公式的な名称として使われていたが、非公式の場では二重帝国全体を指す名称として使われることもあった。第1次世界大戦中の1915年、オーストリアは名実ともにツィスライタニエンの公式名称に定められた。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と帝国政府が公式名称の変更を決心したのは、チェコ人の激しい抵抗運動に対処する目的のみならず、長く帝国議会で議論になってきた事柄だったからでもある。
これにより、帝冠領に属する全ての諸邦がニーダーエスターライヒに由来する赤・白・赤(Rot-Weiß-Rot)のベンド盾章を国章に使用せねばらならくなるという問題が起きた。同じ1915年に新しくオーストリア帝冠領の共通の国章が作られたが、これは以前のように全ての諸邦の小さな国章が示されるものではなく、単にオーストリアの双頭の鷲だけを描いたものであった。この修正の戦争における効果は乏しいとしか言えず、1918年には全く無意味なものとなった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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