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ツェーザリ・キュイ : ミニ英和和英辞書
ツェーザリ・キュイ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ツェーザリ・キュイ : ウィキペディア日本語版
ツェーザリ・キュイ[ちょうおん]

ツェーザリ・アントーノヴィチ・キュイ(, 1835年1月18日 ヴィリニュス - 1918年3月26日)は、ロシア作曲家音楽評論家軍人で、ロシア五人組の一人である。民族的にはロシア人ではなく、母はリトアニア人、父がフランス人混血である。日本では、作曲者自身の用いたフランス語表記に従って、セザール・キュイ)と呼ばれることが多い。五人組の中ではもっとも目立たないが、10曲のオペラを残したほか、ピアノ曲『25の前奏曲』など素朴な作品もある。五人組の中では長寿に恵まれ、厖大な作品数を残した。
実践的な軍事教練の専門家として著名でありながら、余技で精力的に作曲活動を続けた。また同時に、辛辣で攻撃的な音楽評論家としても活躍したが、このためロシア楽壇内で人望がなく、晩年はセルゲイ・リャプノフの助力にすがりつつ、没年まで作曲を続けた。'')と呼ばれることが多い。五人組の中ではもっとも目立たないが、10曲のオペラを残したほか、ピアノ曲『25の前奏曲』など素朴な作品もある。五人組の中では長寿に恵まれ、厖大な作品数を残した。
実践的な軍事教練の専門家として著名でありながら、余技で精力的に作曲活動を続けた。また同時に、辛辣で攻撃的な音楽評論家としても活躍したが、このためロシア楽壇内で人望がなく、晩年はセルゲイ・リャプノフの助力にすがりつつ、没年まで作曲を続けた。
== 生涯 ==

=== 生い立ちと軍役 ===
ツェーザリウス=ベニヤミヌス・キュイ(''Cesarius-Benjaminus Cui'' )として、ロシア帝国ヴィリニュス(現在はリトアニアの首都)に生まれる。実家はローマ・カトリック信徒で、キュイは5人兄弟の末子であった。フランス出身の父アントワーヌは、ナポレオン軍の兵卒として、ロシア帝国からの敗走中にヴィリニュスに居着き、地元の女性ユリア・グチェヴィチ(Julia Gucewicz)と結婚した。
このような多民族的な環境のもとでキュイは生育し、フランス語ロシア語ポーランド語リトアニア語を習得する。まだギムナジウムを卒業する前の1850年に、工科学校への受験の準備のためサンクトペテルブルクに上京し、翌年16歳で入学を果たす。ニコライェフスキー工学アカデミーに進んだ後、堡塁建築術の指南役として1857年に軍役に就く。数十年にわたって数多くの門弟を育成し、その中にはニコライ2世のように、皇族ロマノフ家の一員も含まれていた。堡塁建築の専門家として、ペテルブルクの3つの陸軍士官学校で教壇に立ち、1880年に教授の、1906年には将官の肩書きを得た。キュイの堡塁建築の研究は、露土戦争1877年 - 1878年)の最前線の任務に就いた成果であり、キュイの活動の中で最も重要なものであった。堡塁建築術に関するキュイの著作は数多く、幅広く利用され、版を重ねた教科書も含まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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