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ツェーリンゲン家()は、ドイツの貴族の家系の1つ。現在のシュヴァーベン地方、バーデン=ヴュルテンベルク州とスイスを治めていた。11世紀にシュヴァーベン系とバーデン系に分かれ、シュヴァーベン系は中世に断絶し、バーデン系が引き継いだ。家名はフライブルク・イム・ブライスガウのツェーリンゲン城にちなんで名付けられた。 == 歴史 == 家祖は962年にブライスガウ伯として登場したベルトルト1世(982年没)で、祖先はアラマンニ人の有力貴族と言われている。ヘルマン6世などオーストリア公となった人物も出たが、オーストリア公国の領有権を三代で失っている。 ベルトルト1世の曾孫のベルトルト2世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世にシュヴァーベンの授封を約束されていた。しかし、ハインリヒ3世が亡くなると未亡人アグネスは約束を反故にしてルドルフ・フォン・ラインフェルデンをシュヴァーベン大公に封じた。ベルトルト2世には代わりにケルンテン公国とヴェローナを与えられたが、名ばかりの授封に反発した次男のベルトルトはハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が叙任権闘争で争うと教皇派として対立王となったルドルフと共にハインリヒ4世と戦った。なお、長男のヘルマン1世は1074年(1073年とも)にヴェローナ辺境伯に任命されたが同年に急死、息子のヘルマン2世がバーデンを相続、子孫はバーデン辺境伯として続いた。 ベルトルトはルドルフが1080年に亡くなった後もその息子で妻の兄にあたるベルトルト・フォン・ラインフェルデンと共にホーエンシュタウフェン家出身でハインリヒ4世の婿のフリードリヒ1世と大公位を巡って争い、1090年に義兄が死んでラインフェルデン家が断絶すると遺領を受け継いでシュヴァーベン大公を称し、1098年にマインツの和で和睦するまで戦いを継続した。和睦の結果、フリードリヒ1世がシュヴァーベン大公となり、ベルトルトは代わりにツェーリンゲン大公として大公位を保持、ブライスガウ周辺の勢力を保った。 1127年、ベルトルトの次男コンラート1世は甥にあたるブルゴーニュ伯ギヨーム3世が暗殺されたことで継承権を主張し、ルノー3世と争ってブルゴーニュ東部を獲得、神聖ローマ皇帝ロタール3世からブルグント総監(皇帝代理職、de)を与えられブルグント王国の旧領に当たるスイスに所領を拡大した。この措置はロタール3世の対シュタウフェン家政策の一環とされる。シュヴァーベン系はスイスの発展に尽くしフリブール、ベルン等の都市を築き、チューリヒの整備も行った。しかし、1218年にコンラート1世の孫のベルトルト5世が子の無いまま死去、シュヴァーベン系は断絶し、姻戚関係からキーブルク家が遺領を継承し、さらにキーブルク家と姻戚関係にあるハプスブルク家に渡り同家の興隆の基礎となった。コンラート1世の息子の1人アーダルベルト1世はテック公を称したが、この家系も1439年に断絶し、領土はヴュルテンベルク家に売却された。 バーデン系は1112年にヘルマン2世がバーデン辺境伯となって以降、神聖ローマ帝国の領邦として存続、分割相続で幾度も分裂と合邦を繰り返したが、1771年にバーデン=ドゥルラハ辺境伯カール・フリードリヒが所領を統一、バーデン辺境伯となり、1803年に選帝侯に昇格、1806年に神聖ローマ帝国が解体すると大公となり、バーデン大公国と改められた。以後バーデン大公国はドイツ連邦・南ドイツ連邦への加盟を経て1871年にドイツ帝国の構成国となり、1918年のドイツ革命まで存続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ツェーリンゲン家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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